れるように(注7)、零陵山中にある燕に似た形の石が、風雨にあえば飛び、やめば再び石になるとする中国故事(『初学記』二、天部下)に基づくと考えられる。「梧柳庵」は天明二年(1782)の歳旦帳にあり(注8)、大田南畝に「雨中過石燕丈人梧柳庵」(安永七年[1778])と題する漢詩があることから(注9)、ある程度通用していた号の可能性があろう。「飛雨郷」は使用例の報告がなかったが(注10)、宝暦十一年(1761)『歳旦試筆』、また『今昔画図続百鬼』など数点【15、17、21、32】の印文に見られ、石燕が長く用いた号の一つと理解される。諸文献であげられる「玉樹軒」の確認はできていない。また石燕が生花もよくしたとする指摘があるが(注11)、生花書『瓶花群載』【11】には自身による生花の挿図に「応書林需 石燕叟図」を署名している。また『生花百枝折』【11】には「草□軒石燕門人」を名乗る三名の作品が石燕の絵画の門弟によって描かれる(注12)。生花における雅号の存在もうかがえ、石燕が複数の号を用いて俳諧、絵画そして生花も嗜む人物であったことが垣間見える。没年は墓碑から天明八年八月三日と判明する。享年は七十七歳、七十八歳の二説が有力視される。本稿では、歳旦帳において行年書きのずれがあること、また天明七年九月刊『麦生子』に「七十七翁石燕戯画」とあり、「七十八歳石燕豊房筆」の落款を有する「群童争戯図」【31】の存在を根拠とする七十八歳説に説得力があると考え踏襲する(注13)。■画系と職分絵画の師については、天保十五年(1844)序『増補浮世絵類考』で「〈月岑云〉狩野〈玉燕〉周信の門人なれど、浮世絵に等しき絵也。」と記されて以降、狩かのう野周ちか信のぶと狩野玉ぎょく燕えんが並行、ときに「玉燕周信」と混交され伝えられてきた。周信(1660~1728)は木挽町狩野家三代当主、狩野玉燕季信(1683~1743)は御徒町狩野家の四代当主である。周信説は安永二年(1773)刊の絵手本『鳥山彦(石燕画譜)』【10】の林信亮による序に「初授業於狩野周信、往年研精、上達称世益」とあることから有力視されてきた。後述するが、同書は非常に手の混んだ出来となっており、その制作は遅くとも明和末から入念に準備が進められていた。序跋文も人脈を駆使し依頼を行ったと推察され、その序文に石燕の意に反した記述がなされたとは考えにくく、周信に師事したのが妥当と考える。なお周信が没した享保十三年(1728)、石燕は十八歳。その師弟関係は永田氏が指摘されるように十代の数年と推測される(注14)。また残された作品の多くには各時代の浮世絵師の影響が見られ、『増補浮世絵類考』― 353 ―― 353 ―
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