が記したように、狩野派の門をくぐることから画を始めたが、浮世絵から影響を受けた作画も多かったとするのが実態に近かったのだろう。職分に関しては「代々奥坊主」とする説があり、これは明治期に子孫の佐野宗七が奥坊主であったと報告されたことに端を発するようだ(注15)。『鳥山彦』からは書家の沢田東江や歌人で国学者の加藤枝直など一流の文化人に連なる人脈がうかがわれ、多彩な号の使用や多岐にわたる雅事への関わりからも、深い教養の持ち主であったことは看取される。ちなみに墓石は有力層に採用されることが多かったという笠付方形墓標である(注16)。以上から、奥坊主の可能性も含め、石燕は有力な階級に身をおいた人物と推測したい。なお住居は根津であった(『諸家人名江戸方角分』)。二、俳諧における動向元文五年(1740)刊の絵俳書『氷川八景詩歌并俳句縁起』挿絵【2】があるように、石燕は二十代以前から俳諧を嗜み俳書の挿絵にも関心を持っていたと推測される。明和から安永にかけて刊行された東とう柳りゅう斎さい燕えん志しの歳旦帳では、ほぼ毎年弟子とともに画を寄せているが〔表2〕、近年の俳諧研究では石燕と門弟がはじめ芭蕉の弟子、各務支考に連なる一派、東武獅子門四大家流の歳旦帳『歳旦試筆』に挿絵を寄せていたこと、明和末年、同派の衰微とともに燕志の歳旦帳に挿絵を寄せるようになったことが指摘される(注17)。なお『絵本年表』(注18)は石燕の挿絵を有する宝暦九年(1759)『歳旦試筆』をあげ、また同十一、十三年『歳旦試筆』にもその俳諧と挿絵が確認できる。十一年本には弟子の子興も俳諧と絵を寄せ、燕志や、弟子の志し水みず燕えん十じゅう、また深い交流が知られる俳人、雪中庵三世蓼太の名も見え、彼らとの関係が宝暦(1751~64)に遡るものであったことがわかる。また安永二年(1773)刊の其角座宗匠の肖像集『雙そう猨えん路ろ談だん』【9】で、編者の深川三世湖こ十じゅうと猪談林馬肝の肖像を描き、句も出すことから湖十とも親しかった(注19)。さらに最初の妖怪絵本『画図百鬼夜行』【12】に序と書を寄せ「紫陽主人」「老蚕」と署名するのは、両者を号とする俳人、牧まき冬とう映えい(初世、1721~83)と考えられる。冬映は宗瑞・柳居・湖十(三世)に学び、江戸座の判者から後独立して冬映側をたてた人物。序文には「こゝに於ゐて序を予にもとむ。燕は俳家の友にして相識ことひさしければ、辞におよばず。」と両者の俳諧を通じた交友を示す一文がある。『水滸画潜覧』『絵事比肩』【13、14】に序を寄せる雪中庵三世蓼りょう太た(1718~87)も、江戸座宗匠連を批判し、江戸座との間で論争の応酬があった末、俳壇での地位を確立した有力な俳人― 354 ―― 354 ―
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