であった。石燕はさまざまな立場の俳人と交流を結び、豊かなネットワークを築いていたことが理解されよう。三、作画の概要〔表1〕に掲出するのは最も早い元文三年(1738)の有年記作品「大森彦七図」【1】から晩年にいたる39件。錦絵はないが、概観するとその作画のあり方は、安永二年(1773)刊『鳥山彦(石燕画譜)』【10】を境として変化があるように思われる。これ以前の元文~明和期(1736~72)、石燕二十代から五十代の該当作品は肉筆画7件と絵俳書への挿図1件で、屏風などの大作も含まれるが、やや散発的な印象も受ける(注20)。対して安永から天明前期(1772~84)、六十代から七十代半ばにかけて制作されたと考えられる作品は24件【8~31】と全体の約3分の2にあたる。『鳥山彦』や『画図百鬼夜行』はじめ、自身が主体となった版本も全て含まれる。行年を記す肉筆画も天明期の七十代に集中し【24~31】、年記はなくとも「叟筆」と記す作品も5件【32~36】ある。石燕の作画活動は、安永期以降に活発さを増したと言えそうである。この頃石燕は職を致仕し、時間的余裕ができた可能性も考えたい。■元文から明和 画業前期「大森彦七図」【1】〔図1〕は、裏面墨書に最も早い元文三年(1738)、石燕二十八歳時の年記が確認される。南北時代の武将、大森彦七が鬼女を背負う姿を描くが、人体の把握は的確であり、また鬼女の頭髪や器物等の細部描写は細密である。本図は、石燕がこの時点で相応の画技を習得していたことを示している(注21)。ただし彦七の丸く大きな目や脛の筋張った表現、芝居がかったポーズなどは、狩野派より、むしろ奥村政信描く武者絵(「武者絵尽」など)の表現に近いように思われる。一方、「邸内遊興図屏風」【3】および「三味線の音締をする若衆図」【4】〔図2〕では、前者は宮川派からの影響が指摘され(注22)、後者の細面に小さな目鼻が描かれる容貌は二代鳥居清倍の役者絵(「三幅対 左 沢村金蔵」など)との近似が認められる。宝暦十一年(1761)『歳旦試筆』では西川祐信を写した挿絵〔図3〕も確認でき(注23)、つまり石燕は、武者絵、美人画、遊里図、それぞれの画題を得意とした絵師の画風を取り入れつつこれらを制作したことが推測される。この傾向は以降も見られ、相応の画技を有しつつもオリジナリティに欠ける作画のあり方には、石燕が専業画家ではなかったことが示唆されるように思われる。なお「中村喜代三郎」【6】(現存せず)は、小川顕道『塵塚談』(文化十一年[1814]成立)に宝暦年間のはじめ頃に浅草観音堂に掲げられ「是江戸にて似顔画の濫觴成べ― 355 ―― 355 ―
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