鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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し」と伝えられるもの。その真偽は不明だが「三味線の音締をする若衆図」〔図2〕の例もあり、青年期の石燕が役者絵にも深い関心を寄せていたことはいえよう。■安永から天明 画業後期種々の絵本が次々と刊行されるが、他の作画を見るとその画題の幅広さが印象的である。妖怪絵本の成功をうけて制作された「百鬼夜行図巻」【18】(注24)、また花魁を描く「桜下花魁図」【25】がある一方で、「鯉図」【34】〔図4〕も描かれる。「鯉図」では、狩野派の画譜『画筅』(林守篤編、享保六年[1721])が鯉図で墨と黄土を用いる描法を指南するのに則るとの指摘があるが(注25)、実は鯉の姿そのものも石燕は『画筅』を参照している。また『三国志演義』の英雄、関羽が周倉を従える図が複数【27、32、33】あり、『通俗水滸伝』や『通俗西遊記』の影響下の『水滸画潜覧』【13】、『通俗画図勢勇談』【22】を手掛ける。他方、「鵜飼図」など俳諧的な世界観の作品もある。それぞれ異なる描法を用いながらも一定の完成度を見せており、石燕の画技の確かさと、さまざまな画題に対しての知識の深さも示すものの、その幅広さがかえって画家としてのイメージを散漫なものとしている感も否めない。そして実は石燕のこうした広範な表現や題材への関心は、この時期の最初期の作品と位置づけられる『鳥山彦』【10】〔図5、6〕にすでに見いだせる。本作はさまざまな画題を描いた色摺絵手本だが、その際立った彫摺の技術の高さでも知られ、『武江年表』(斎藤月岑著、嘉永元年[1848]脱稿)では「フキボカシの彩色摺を工夫せしは此の本を始めとする由」と語られる。かつ序跋に参画した顔ぶれも豪華で、こうした点においても石燕の他の絵本類とは異なる存在感を示している。そこで次章では『鳥山彦』を取り上げ、制作に関わった人々について考察する。四、『鳥山彦』(『石燕画譜』)をめぐる人々『鳥山彦』はとりわけ安永二年(1773)の初版本において、種々のぼかしを用いた高度な彫摺技術が見られる。多彩な画題や書誌情報は浅野氏が詳述されるが(注26)、以下、制作に関わった人物を概観していく。■序文一石燕の自序を含めた3つの序文のうち巻首序文には「政庁儒臣。林懋伯虞甫。書于菊渓館。」と記される。この「林懋伯虞甫」は、林読耕斎に連なる第二林家の当主、林信亮(1709~81)と思われる。字を伯虞とし、号のひとつに菊渓がある。享保十四年(1729)に家を継ぎ宝暦七年(1757)評定所の儒者となった。信亮と石燕の交流に― 356 ―― 356 ―

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