ついては不明だが、「藤氏之子。乞余為序。取藤氏言。遂撰応焉。」とあり、仲介者の存在が示されている。なお「安永癸巳春之孟」とあり制作は刊行時期に近い安永二年初春。■序文二次いで序文を記すのは儒学者、入いり江え北ほっ海かい(1714~89)。北海は入江南溟に徂徠学を学び、南溟の養子となる。のち伊賀上野の藤堂家につかえ用人役上頭にすすんだ。北海も序文中「鳥山生夙受二業ヲ於狩野者流一。」と記し、石燕が狩野派に連なることが喧伝される。さらに「因二我友無攀氏一。徼三余庁言以弁二巻首一。余雖レ不レ学画。乃不レ為レ辞者。如レ初。」とあることから、「無攀氏」なる人物が仲介した事情もうかがわれる。なお「安永壬辰季冬朔 北海入江貞子実撰」とあり、刊行の前年、安永元年冬に認められている。■書上下巻それぞれに「麟」、「鳳」の書を寄せる沢さわ田だ東とう江こう(1732~96)は、林家へ入門し儒家を志すが明和四年(1767)山県大弐事件に連座し士官の道が閉ざされると、以降は文人たちとの風雅の交流を求めた。東江流の書家としても名高い。■跋「要南甫」と署名する人物は、幕臣であり歌人で国学者の加か藤とう枝え直なお(1692~1785)であろう。本姓、橘。名を初め為直、のち枝直、要南甫とした。子に加藤千蔭。江戸町奉行大岡越前守忠相配下の与力で賀茂真淵を庇護した。『加藤枝直日記』には跋文依頼に関する記述が見られ(注27)、明和八年(1771)十二月二十日条に「一、鳥山石燕、画譜を致板行候二付、外漢文序、乞請候。仮字の跋文頼度由、法師由来。則、案文認。」とあり、初版刊行の安永二年(1773)の一年以上前の依頼であったことが判明する。枝直は早々に取り掛かり翌年二月十七日条に「一、此間通義より、料紙五枚、俚哥、俚文所望ニ而、『石燕画譜』跋の詞、其外歌、書遣。」とある。■版元初版の版元は花屋久次郎と若林清兵衛。花屋久次郎は、川柳の句集『誹風柳多留』(明和二~天保十一年刊、167編)の初編から124編の版元として知られる。同年に刊行され石燕も一部挿絵を担った『雙猨路談』【9】を手掛けており、絵俳書への参画を通して石燕は花屋久次郎との機縁を得た可能性も考えられる。安永三年版の版元は遠州屋弥七。再刻版では版元名・刊年は記されない。遠州屋は、以後の絵本類8件のうち6件【12~15、23】の初版を出雲寺和泉掾(江戸本町二丁目)と手掛ける、石燕後期の画業のパートナーの一人とも言える存在である。― 357 ―― 357 ―
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