鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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品は以下の通りとなる。・文化期内田篤呉氏は『住吉家古画留帳』(東京藝術大学附属図書館蔵)の文化四年(1807)十一月十日条に記載される光琳筆「雪竹図屏風」について、冬木屋が理兵衛を介して持ち込んだ点を紹介する(注3)。・文政期脇本十九郎(1883-1963)は『美術研究(三四号)』で武清が文政五年に実見した作品の記録となる『武清縮図』を紹介し(注4)、同書に所載される光琳作品では「尾形光琳筆燕子花六曲屏風(一双)」、「尾形光琳筆富士、松島図六曲屏風(一双)」の二件が確認できる。これらの作品を実見した日時がいずれも文政五年八月十三日となり、さらに同日、光琳以外の十一件の書画を拝見しており、これらは冬木屋本家で所蔵品を拝見したと判断される。なお「尾形光琳筆富士、松島図六曲屏風(一双)」は後述する鈴木其一書簡により安政五年以前に売却される。なお現在、江戸東京博物館に所蔵される酒井抱一(1761-1829)より名主永野又次郎(生没年不詳)への書簡については牧野宏子氏が紹介しており、書簡中、抱一が冬木屋での所蔵品を拝見している記述が確認できる(注5)。・天保期武清と冬木屋との関係を考える上で重要となる作品は「冬木小袖」であり、冬木小袖付属文書のうち小袖の模写は武清による。模写中、武清によって「冬木家蔵光琳真蹟地白ぬめ 天保九戊戌二月」との墨書があり、天保九年(1838)の書付と知れる。文政五年当時の冬木屋の当主は七代目喜平次となり、冬木小袖を模写した天保九年時点での当主は八代目喜平次となる。すなわち武清は七代目および八代目喜平次との交渉があったことが確認できる。・嘉永期教覚による『宇米廼記』は、嘉永三年(1850)五月二十九日、同年九月二日に冬木屋上田家で実見した手鑑、掛物、蒔絵硯箱、茶入、茶碗などの記録となる(注6)。五月二十九日には古筆手鑑「隠心帖」(重要文化財。個人蔵)、「蔦細道蒔絵硯箱」(中興名物。重要美術品(注7))、尾形乾山筆「梅松図」(個人蔵)などを拝見し、九月二日には秋月等観筆「馬乗鍾馗図」のほか光琳による蒔絵硯箱、茶の湯道具などを拝見した。同書では作品フロッタージュに加え、梅松図の模写が所載される〔図2〕。嘉永三年時点で九代目は十四歳となるため、九代目の母で八代目の妻である清秀院明室智光大姉(1870没)の存在があり、同人の意向が大きく反映されたものと考えら― 26 ―― 26 ―

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