鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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注⑴魏文斌『麦積山石窟初期洞窟調査與研究』甘粛教育出版社,2017年,21頁。(図版中の写真は、転載元を明記したものを除き、いずれも麦積山石窟芸術研究所の提供による)重修時期の措定パルメットを構成する諸文様のなかで様式2に認定した一群は、原画にも重修画にも用いられており、原画用に限られる様式1とこの点で相異していた。そして、様式2の原画を有する窟龕は既存の研究によって北周・隋代に編年されており、このことは、本稿での様式分離が妥当であることを追認すると共に、重修もまたこの頃に実施されたことを推測させる(注10)。しかし、麦積山石窟の歴史的背景を加味するならば、重修年代はもう少し限定できる可能性がある。すなわち、北周は25年間、隋は38年間、それぞれ政権を維持した。北周代の場合、574-577年の4年に亘る廃仏期がこの間に挟まれることを考慮すると、重修を実行した年代は、北周代よりも隋代の統治下とみたほうが説得的である。視点を崖面に移して検討を加えると、100基を超す窟龕ですでに満たされていた西崖が隋代に至って、余地がほとんど見出せず、新規開鑿が東崖に移ったのである。こうして、重修へ導いた要因の一つとして崖面の不足という事情が浮上することになる。隋文帝楊堅は、北周の静帝から禅譲を受けて隋朝を樹立し、仏教の復興をはかって「仏教治国策」を講じたという。この仏教推進のことは山崎宏や湯用彤の研究に詳しい(注11)。山崎は、「仏教治国策」の事例として、開皇3年(583)に廃寺復興令を発し、開皇5年(585)に全土45の各州に大興国寺を造らせ、仁寿年間(601-604)に舎利塔を各地に賜与したことを、湯は、隋代の仏教再興史上、最大の出来事として仏法の再興・舎利塔の建立を、それぞれ挙げた。麦積山の位置する秦州でも、静念寺に起塔されたことを伝えている(注12)。それならば、「仏教治国策」を奉じた隋が麦積山において、窟龕を開鑿と共に、既存の壁画の重修をも実行した可能性は低くない。以上、原画を求める際の阻害要因である重修を逆手にとり、パルメットをケーススタディにして壁画の編年を試み、ひとまず帰結を得て重修年代にも言及した。壁画のモチーフにはパルメット以外にも各種の文様があり、人間や動物の図像もある。これらをことごとく編年するのはもとより容易でないけれども、重修が編年の糸口を与えてくれることは、今次のケーススタディによって立証されたのではないかと考える。― 373 ―― 373 ―

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