⑵第54・70・71龕のように、前壁が造られていない場合、窟でなく、「龕」と称する。窟内に龕が含まれた場合、例えば第133窟は11基の龕なら、133-1…133-11と表記する。⑶林良一『東洋美術の装飾文様─植物文様』同朋舎,1992年。⑷長廣敏雄『大同石佛藝術論』高桐書院,1946年,123-124頁。前掲林,178頁。⑸吉村怜『天人誕生図の研究─東アジア仏教美術史論集』東方書店,1999年。⑹前掲長廣,142-143頁,153頁。前掲林,156-159頁。⑺2012年現地調査時、第141窟左壁中央龕に壁画片が残存していた。⑻腹部を縦横線で満たした第116龕は、この1例にとどまる。この重ね方は、随意によるのか、それとも様式1の上に加筆したのか、後考を俟つが、隣接する宝華文の同色系である点を参考にして様式2に帰属させておく。⑼前掲林,191頁。⑽本研究は董玉祥(1983),閻文儒(1984),麦積山石窟芸術研究所(1987),金維諾(1987),東山健吾(1987,2010),李西民(1992),張錦秀(2002),李裕群(2003,2010),馬世長・丁明夷(2009),達維佳(2011),八木春生(2011),陳悦新(2013)による編年を参考している。ここに麦積山石窟芸術研究所の措定した北周・隋代の窟龕をそれぞれ挙げておく。北周代:2,3,4,6,7,9,11,12,14,18,22,26,27,31,32,35,36,39,45,46,47,48,52,55,62,65,67,94,113,125,136,141,157,168;隋代:4,5,8,10,13,24,25,37,82,189。⑾山崎宏『支那中世佛教の展開』清水書店,1947年;湯用彤『隋唐仏教史稿』中華書局,1982年,4-10頁。⑿唐・釈道宣『廣弘明集』新文豐出版公司,1986年,238頁。― 374 ―― 374 ―
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