3.法隆寺講堂の再興り、天台系の遺品とする見方が強い(注15)。法隆寺講堂薬師三尊像は、延長3年(925)の講堂焼失後、正暦元年(990)再建時に造立されたものと位置付けられている。一具として制作されたとみられるが、中尊と両脇侍で作風上明らかな違いが認められる。以下に概略を述べる。まず構造については、中尊の薬師如来坐像は一木造、両脇侍の日光・月光菩薩坐像は左右二材製で正中矧ぎとする。正中矧ぎは当代においてもまれに見る技法であるが、京都・六波羅蜜寺薬師如来坐像や大阪・安岡寺千手観音坐像などが知られている。薬師如来像は平安前期彫刻を思わせる古風な顔立ちで、いかにも南都寺院の一堂宇の本尊に相応しい堂々たる尊容である。力強くどっしりとした重厚感のある体躯が特徴といえる。これに対して両脇侍像の作風は、穏やかな顔立ちで衣文表現も落ち着いており、両膝の高さも低めである。力強さよりも洗練された柔和なすがたで、定朝様に通ずるような感があり、薬師如来像とは作風を異にしている。全体の印象として、三日月形の眼や下ぶくれ気味の面相部などは先に掲げた六波羅蜜寺薬師如来像や安岡寺千手観音像とよく似ている。中尊と両脇侍に認められる構造や様式、作風上の違いは、本体だけでなく光背や台座など尊像を取り巻くものにまで及んでいる。三尊ともに光背・台座が附属するが、中尊分と両脇侍分で作風が若干異なる。また両脇侍分の光脚は台座本体よりも左右外側へ張り出しており、本体の両膝よりもはみ出すことから、別の古像のものを転用した可能性も提示されている(注16)。光背と台座は補修箇所も多いため、判然としないが、少なくとも正暦元年頃に三尊一具として造像されたという見方が今日主流であり、筆者も同様に考えている。つまり、中尊と両脇侍に見える様式や作風の違いは、造像を担当した仏師集団が古様を重視するのか、新様を重視するのかといった工房の「性格」の異なりを意味しているといえる。想像をたくましくすれば、中尊は奈良を拠点とした仏師集団によって、両脇侍は京都を拠点とした仏師集団によって造像されたものと考えられる。但し、これは作例の分析によって推定されたものであり、現段階で確証を得られる史料は揃っていない。先にも述べたが、『法隆寺別当次第』などの法隆寺関係史料によると、法隆寺講堂は延長3年(925)に焼失した。再建されたのはそれから65年後となる正暦元年― 381 ―― 381 ―
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