(990)であると伝えている(注17)。この記録に従って、堂内に安置される薬師三尊像、四天王像についても同時期に造像されたものと位置付けられている。法隆寺講堂について『聖徳太子伝私記』や『法隆寺白拍子記』には、延長3年の焼失後の再建の際に、当時別当であった観理が法隆寺領近江荘と引き替えに京都・普明寺の堂宇を移築して講堂としたと伝えている(注18)。普明寺は、現在の京都市伏見区深草に所在した寺院で、聖宝が八尺の四天王像を造立し、さらに五部大乗経を書写して法会を行ったといわれる。延喜9年(909)聖宝は同寺にて寂している。ちなみに観理は聖宝の弟子である延敒の弟子に当たる。以上から、聖宝の法脈に属する人物の関与が認められる点が注目される。上に掲げた史料の記述からは、焼失した講堂と同じ規模の建造物を探した結果、普明寺にあった堂がそれに該当したため、寺領を手放してまで既存の堂宇を移築させたものと解釈することができる。しかし発掘調査の結果、延長三年に焼失した講堂の大きさは現存の堂宇と一致することが明らかとなっているものの、解体調査の結果から移築の痕跡は認められていない。すなわち、現存の講堂は移築されたものではないとの結論が出されている(注19)。聖宝と法隆寺との関係について、義演撰『五八代記』には、『宗体要文』にいうとして聖宝の事績が記されている。ここで一部抜粋する(/は改行位置、傍線部筆者)。 聖宝/宗体要文云、/第十一僧正聖宝、兵部大丞高声親王者、是田原天皇孫恒蔭王、(中略)東大寺中門、造立二丈二天像、造立供養日、供千二百僧、寺中建立東南院、興三論宗、門徒満寺、学衆多数、東寺長者別当食堂、造立丈六金色千手観音、一丈四王像、西寺中門造立二天像、太上法皇幸於会庭在勅御諷誦、并贈太政大臣等各諷誦云々、興福寺内建立地蔵院、法隆寺内草創東院、造丈六薬師如来、弘福寺、現光寺、醍醐山建立上下両寺、(後略)この資料には、『醍醐根本僧正略伝』に記載される聖宝の事績として広く知られている東大寺中門での造像や東寺・西寺での造像以外に、法隆寺に「東院」を創建して丈六の薬師如来像を造立したことを伝える史料として知られている(注20)。「法隆寺東院」が具体的にどの堂舎を指すのかは不明であるが、聖宝の法隆寺での造像を伝える記述である。「法隆寺東院」が講堂を指しているのかは不明であるが、もし当を得ている場合、正暦元年の再建に聖宝の直接的な関与はないものの、観理などの聖宝の法脈に属する― 382 ―― 382 ―
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