注⑴ 宇野茂樹「天台末山の彫刻群」(『近江路の彫像』雄山閣出版、1974年)。清水善三「平安前期における工人組織の変遷(中)」(『佛敎藝術』135、毎日新聞社、1981年)。のち同『平安彫刻史の研究』(中央公論美術出版、1996年)第2部第4章第2節に「平安時代における工人組織の変遷」と改題の上再収。岩田茂樹「康尚時代の延暦寺工房をめぐる試論─三軀の観音立像を中心に─」(京都国立博物館編『学叢』20、1998年)など。⑺ 奥健夫「書写山円教寺創建期造像の調査研究」(鹿島美術財団編『鹿島美術研究』年報28別冊、⑵ 注⑴前掲岩田氏論文。⑶ 同上49頁。⑷ 井上一稔「仮称「甲賀様式」の仏像について」(滋賀県立琵琶湖文化館編『滋賀県立琵琶湖文⑸ 妙傳寺像・九品寺像・盛安寺像や善水寺諸像とは様式が異なり、若干細身であることから、筆⑹ 永延元年(987)造立とされる円教寺大講堂釈迦三尊像、四天王像や長保元年(999)銘のある弥勒寺弥勒三尊像など性空ゆかりの造仏には、性空の弟子と考えられる感阿や安鎮らの関与が指摘されている。⑻ 正暦5年(994)頃の造立と考えられる京都・真如堂(真正極楽寺)阿弥陀如来立像も「比叡⑼ 伊東史朗『十世紀の彫刻』(『日本の美術』479、至文堂、2006年)80頁。⑽ 聖宝や会理がよく知られているほか、円教寺での造仏には、性空の弟子と考えられる感阿・安人物あるいは醍醐寺の法脈にいた人物の関与が想定される。今後の課題としたい。おわりに以上、本稿では平安中期に造立された尊像の中で、共通する特徴をそなえる作例が見出せること、そしていずれも天台の宗教圏内に伝来していることから、「比叡山仏所」から仏師を派遣していた可能性を指摘した。また、滋賀県内に伝来した尊像と法隆寺大講堂に伝来した尊像において作風が酷似することから、正暦期の法隆寺講堂再建においては、「南都系仏師」と「京都系仏師」の両者が造像に関与した可能性を推測した。先述したように、これまでの研究成果では地域ごとの宗教圏で検討されることが多かったが、広い視野で作例を検討した結果、法脈による強い制限が存在しつつも、それに執着することはなく、造像においても比叡山との繋がり(本末関係)が確認できるのではないだろうか。本稿で充分に検討することができなかった僧侶と仏師の具体的な動向については、今後の課題としたい。化館研究紀要』4、1986年)。者は能福寺像の制作は11世紀に入ってからであると考えている。2011年)542頁。山から下ろされた」という伝承をもつ。― 383 ―― 383 ―
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