鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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二 鴻池屋永岡家岡野知十(1860-1932)は『雨華抱一』(1900)の「潤筆銭」中、冬木屋の重宝とした光琳筆「八橋図屏風」を鴻池(屋)儀兵衛の所望によって抱一が写したとする(注8)。依頼主が鴻池屋儀兵衛とする説は、現在の研究で支持されるものの、明確な資料は不足している。また島田筑波(一郎/1885-1951)は『冬木沿革史』(1926年)で鴻池屋の別宅が深川の冬木町と扇橋にあったとする点から、「鴻儀は冬木の巨商を慕ふて、その遺跡に居を占められたものらしく考えられる」と述べる(注9)。儀兵衛と抱一を巡っては酒井抱一筆「五節句図」(大倉集古館蔵。重要美術品)に付属する抱一書簡二通より確認できる。宛名にある鴻儀とは鴻池屋儀兵衛の略称となるが、同家と親しくした松阪商人の竹川竹斎(1809-1882)の記録では鴻儀(義)といった表記は屋号を指している。作画の依頼者である伊三郎(のち成美。儀兵衛/1797-1855)とは永岡栄義(儀兵衛/1783-1842)の養子であり、抱一と関係した時期は当主ではない(注10)。「五節句図」を収納する箱底には方印で朱文の成美の押印がある。本作品は確実に鴻池屋で所蔵された作品となることから、「成美」印は永岡家当主である成美の所蔵印と判明する。ところでMOA美術館が所蔵する光琳筆「秋好中宮図」〔図3〕には抱一より伊三郎へ宛てた書簡─尤も宛名は小梅庵であるが、封書は抱一により伊三郎宛と書かれる─が付属し、さらに箱底には、やはり「成美」の印を確認した。すなわち書簡および箱底押印より本作品は永岡家旧蔵品と判明する。また本作品は池田孤邨(1801-1866)の編纂になる『光琳新撰百図』に所載され、所蔵者は不爭庵とある。そこで同書中、不爭庵の所蔵品では「麟鳳亀龍」(四幅対。根津美術館蔵)、「波濤図」、「中寿老人、左右恵比寿、大黒(三幅対)」がある。このうち伝光琳筆「麟鳳亀龍」は、かつて冬木屋上田家の所蔵品とされるが(注11)、箱底に成美の押印を確認した。これらの点からも『光琳新撰百図』に所載される不爭庵所蔵品とは永岡家旧蔵品と判断される。孤邨は永岡家所蔵品の縮図を作成したことが知られ、このような親密な関係は、孤邨による編纂物にも作品を提供したと考えられる。ここで改めて冬木屋と鴻池屋の関係に着目するとき、鴻池屋の創業者儀兵衛(1790没)が南茅場町に構えた店は江戸の下り酒問屋である鴻池屋太郎兵衛(生没年不詳)から分家したことによる。このことを念頭に石塚青我(1910生)が『國華(八八九号)』で紹介する冬木屋系図─現在の冬木家では所蔵しない─の判読を試みると分家である小平次家三代目政興(1804没)の次女つや(生没年不詳)について「女子― 28 ―― 28 ―

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