鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
401/602

『中国名画集』『中国名画集』と中国旅行での撮影写真の対応関係北京延光室の写真と佟済煦の書簡当時の名画写真に関連して、清内府所蔵書画を撮影した北京の延光室に触れておく必要がある。延光室は佟済煦(1884-1943)が1912年に開業した写真館兼美術出版社で、清内府所蔵の歴代書画の写真を独占的に撮影販売していた。佟は1921年12月15日、西崖が北京で内府所蔵品の撮影を終えた日に西崖を訪問し、趙孟堅「水仙図巻」の写真一式を贈った(注4)が、その意図は別にあった。訪問の翌日、西崖に書簡を送り「閣下への内府所蔵作品の閲覧撮影許可はあくまで学術参考の為である。その出版販売は自分の営業を侵害するので慎んで頂きたい」と西崖に出版しないよう求めている(注5)。西崖はこの版権問題のために第2回中国旅行時に北京に赴き、金城同席の上で佟と協議したが、話は平行線を辿り未決に終わった(注6)。西崖が中国で撮影した名画集の出版はその存命中には実現しなかった。西崖没後に西崖の長男の大村文夫(?-1977)が西崖の遺した中国絵画の写真をまとめ、原田尾山の編輯協力を得て出版したのが『中国名画集』(以下『名画集』)である。同書は全8巻、時代別に作品写真が並ぶ。文夫による序文が付されるが、奥付に文夫の名前はない。奥付によれば昭和20年(1945)8月8日印刷、8月12日発行、発行部数100部、発行所株式会社龍文書院、編輯兼発行人田中乾郎(龍文書院代表)、配給元日本出版配給統制株式会社。物資統制の厳しい戦時下、この奥付は粗末な酸性紙に手書きのガリ版で刷られており、終戦3日前の出版の経緯は不明である。『名画集』は稀覯本かつ酸性紙の状態も良くない。今回の照合には国会図書館のデジタル資料を用いた(注7)。頁数の表示がないため、便宜的に最初から掲載写真に1頁ずつ通し番号を割り振った。掲載冊数の数字と組み合わせて、例えば2冊目冒頭の黄公望「九峯雪霽図軸」は[2-107]と表記する。今回の調査では西崖が1921-22年の第1回中国旅行で写真撮影した作品を精査し、現在の収蔵状況を跡づけることにした。筆者はまず『名画集』の作品写真803頁804点(注8)を中国旅行日記(以下日記と記す)と照合した。西崖は作品調査の際は作者名、作品名、作品サイズ、基材と技法、所蔵者名を書き記しており、作品写真の特定にあたっては作者名・作品名の他、特に作品サイズに基づく画面の縦横比率が判断材料として役立った。この照合作業によって、『名画集』のほぼ全ての作品に関して、― 389 ―― 389 ―

元のページ  ../index.html#401

このブックを見る