鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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ある。龔賢の画法冊は丹青社から折本形式の『龔賢画法冊』として出版されている。同書の内容は日記の撮影記録と一致し、1922(大正11)年春に書かれた西崖の序文と解説書が付随する。この作品写真が『名画集』に収録されなかったのはこのように先に単独出版されていたためと考えられる。李公麟「五馬図」については、今回の調査により、東京藝術大学所蔵の西崖資料の中に2種類の写真が見つかった。台紙にマウントされたコロー版写真の装丁版と、「延光室」の袋に入った大判印画紙の作品写真である。両者は体裁が異なるだけでなく作品の撮影構図に明確な違いがある。「五馬図」は馬と御者の画の左側に跋が付される構成で、装丁版はこの組み合わせを正しく一枚の構図の中に納める〔図5〕が、延光室の写真では右に(前図の)跋、左に画という構図で画面を切り取っている〔図6〕。両者は別に撮影されたもので、装丁版は西崖が撮影した「五馬図巻」と考えられる。現存する装丁版は五馬図のうち4図と黄庭堅による巻末跋を二折台紙に貼り込んだ5点で、別の巻末跋1点がマクリ状態で付帯する。五馬図の最初の1図の冊葉は失われているものの、本画5枚跋2枚計7枚撮影という西崖の撮影記録と一致する。文字情報は何もないが、コロー版印刷であることから一定数作成された可能性が考えられる。1923年4月11日に西崖が北京で金城に贈った「李伯時五馬図巻冊葉一本」はこれに該当する可能性があり、そうであれば西崖は帰国後すぐに装丁版を作製したことになる。五馬図が『名画集』に収録されなかったのはこの装丁版の存在が関係しているかと思われる。この他に、黄公望「芝蘭室銘」と張風「山水軸」は『文人画選』第2輯第4冊、5冊の中に掲載された写真が残る。『名画集』に入らなかった経緯は不明である。C-②に分類したのは、五星廿八宿神形図の7点と、前述の五馬図巻の最初の1点、その他日記に作品サイズの記入がある作品9件9点(うち2枚は中国旅行中に破棄)である。写真が存在しないため日記との照合は困難である(注12)。D 西崖に撮影を許可しなかった収蔵家の蔵品以上のように、西崖が中国で撮影した作品写真の大部分について確認できる結果となったが、西崖は中国で撮影を望んだ全ての作品を撮影できたわけではなく、3名の収蔵家からは撮影許可を得られなかった(注13)。現存する写真と日記の照合によれば、それは北京の顔世清と関冕鈞、上海の張増煕と考えられる。日記には顔世清と西崖の「寒木堂蔵書画」印行についての協議記録(注14)と、関冕鈞が西崖に撮影のた― 391 ―― 391 ―

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