つや 鴻池栄蔵妻」との記述が確認できる(注12)。系図中、天明、寛政年間(1781-1800)の没年が記載されないため当時、存命していたことが確認できる。また鴻池栄蔵は下り酒問屋の鴻池屋栄蔵(生没年不詳)と判断され、太郎兵衛とは近しい分家となる。これらの点から冬木屋分家である小平次家と江戸の鴻池屋の本家筋に近い栄蔵家は姻戚関係が成立する。ここで改めて儀兵衛店の成立に着目すると、創業者である儀兵衛は太郎兵衛の元にいたが、寛延二年(1749)に合力金により独立し、天明期にはすでに一角の商人として茅場町─南茅場町と目される─で地廻り酒問屋として創業した。ここで延享元年(1744)の沽券および嘉永期の南茅場町の地図を比較すると小平治(次)跡地に鴻池屋があることがわかる〔図4〕。小平次家の所有した南茅場町の土地については、先述の系図によれば安永年中(1772-1780)に逼塞したため冬木町に移った。そのため土地は売却されたと考えられ、この時期に栄蔵を介して儀兵衛が土地を取得したものと判断される。すなわち創業者儀兵衛と冬木屋の関係は土地の譲渡をめぐる関係と、後の当主である伊三郎(のちの成美)は光琳作品の所蔵家としての位置が確認できる。これは江戸の町人による光琳顕彰の一端とみることができる。孤邨が冬木屋旧蔵の作品を実見できた可能性について考えるとき重要な作品となるのが尾形乾山作共筒茶杓銘「鴫立沢」である。同茶杓に付属する孤邨による永岡氏宛の消息中には次のような記述がある。尚々冬木主人之参候間御噂申上候 是又厚く御伝声にて約束の赤染衛門の哥の絵出来さし上候(注13)茶杓の購入に際し孤邨が仲介していることが知れるとともに、宛名の永岡氏とは名物の茶の湯道具の収集に熱心であった成美と考えられる。注目すべきは孤邨の元に冬木屋本家主人がやってきて、永岡氏の噂話をしていた点である。当時、注文したのであろう、赤染衛門の歌の絵が出来たため冬木屋主人に贈ったことが知れる。本書状の書かれた年次は成美が没する安政二年までとなる。この点から冬木屋当主に該当するのは嘉永二年に没する八代目喜平次、同年以降であれば九代目喜平次が該当するが嘉永二年より安政二年は十四から二十歳の若年であるため、やはり八代目喜平次となる。以上の点から本書簡は嘉永二年までに書かれたと判断される。鴻池屋は七代目および八代目喜平次と関係し、孤邨と冬木屋、鴻池屋との関係が確認できた点からも、武清と同様に七代目、八代目の時期に最も確認できることとなる。すなわち抱一没後の― 29 ―― 29 ―
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