㊱ 中国南北朝の弥勒信仰にかかる造形表現について研 究 者:九州国立博物館 アソシエイトフェロー 折 山 桂 子はじめに中国・甘粛省の敦煌莫高窟では、4世紀半ばに開鑿が始まって以降、弥勒菩薩や弥勒如来の塑像・壁画が盛んに制作された。初期の窟では交脚菩薩像が多数作られており、他の類例との比較からその尊格は弥勒とみなされている。また、隋になると経典に基づき兜率天上の弥勒菩薩を描く弥勒経変が現れる。北涼・北魏の交脚菩薩像、及び隋以降の弥勒経変に関する研究は一定の蓄積があるが、西魏・北周の弥勒の図像を中心に扱った研究は管見では認められない。この点に着目して同時期の莫高窟の弥勒の表現について確認したところ、当該期には弥勒とみなしうる図像が極めて少ないことが分かった。すなわち前後の時代である北涼・北魏や隋とは異なる様相を呈しているといえる。作例数の減少からは弥勒信仰の衰退あるいは他の信仰の隆盛など、莫高窟における信仰様態の変化が窺われ、現地において当該期の図像やプランを詳細に確認することにより、窟全体を通底する思想、ひいては当時の莫高窟における信仰のありさまを明らかにできると推測する。本稿ではその前段階として、まずは2019年に現地で行った事前調査により得られた情報、及び敦煌莫高窟の窟の内容をまとめた内容総録(注1)や図版資料をもとに西魏・北周とその前後の時代の造形表現や窟のプランを比較検討する。また、莫高窟と同様の傾向は西魏・北周の域内の他の作例でも認められ、他方、東魏・北斉では継続的に弥勒の像が作られていることを確認する。以上をもとに莫高窟の西魏・北周窟において弥勒の表現が失われる理由について現時点での考察を述べ、今後の調査で明らかにすべき点をまとめたい。1.北朝から隋の弥勒の表現莫高窟における弥勒の表現について、まずは弥勒の図像が一定数認められる北魏以前・隋を取り上げ、その後西魏・北周の様態を確認する。(1)北魏以前第275窟は北涼の開鑿とされ、窟奥の西壁に交脚の菩薩塑像を安置する〔図1〕。交脚菩薩は他の地域でも北朝期から確認でき、弥勒との銘を伴う作例もあることから、本像もまた弥勒菩薩を表現したものと考えられる。このほか北魏の窟では壁面上部、または窟内中央に設けられた柱(「中心柱」と呼称される)の上部に交脚菩薩像を表― 400 ―― 400 ―
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