鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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(2)隋(3)西魏・北周現することが多く、これらもまた、弥勒菩薩とみなされている〔図2〕。交脚菩薩像はすべて塑像で、全体的な造形が近似する。北魏以前の制作とされる20窟のうち11窟に、計14体の弥勒菩薩交脚像が認められる。隋の弥勒は主に沮渠京聲訳『観弥勒菩薩上生兜率天経』(注2)に依拠する変相図の主尊として表される(注3)〔図3〕。本経典は兜率天に住まう弥勒菩薩のもとへの往生を願う内容で、壁画には経典に説かれる兜率天宮中の弥勒菩薩、それを讃嘆する天人らの表現が確認される。こういった弥勒経変は隋の開鑿とされる80弱の窟のうち7窟に7例が認められる。窟数が多いため弥勒経変の占める割合が低く思われるが、その様式はほぼ定まっており、一定の思想のもとで制作されたと推測できる。西魏・北周に開かれたとされる窟の大多数に対し、2019年に現地で事前調査を実施した(注4)。これは、西魏・北周窟の制作時の思想背景を考察するにあたり、まずは当該期の窟の概要や主題について網羅的に把握すべく行ったものである。西魏・北周の前後の時代である北魏・隋の間、弥勒は多くの場合交脚坐で表現されていることから、本調査では西魏・北周の交脚像を中心に検討した(注5)。塑像の作例は2例あり、1つは西魏の第288窟、中心柱西面上層龕に塑像交脚仏を表すものである。北魏以前、中心柱の上層龕に交脚菩薩を表す例が頻繁に見られることは前述したとおりだが、本像は仏形であり、また、北魏の交脚菩薩のほとんどが闕形龕と呼ばれる宮殿建築を模した形式の龕を備えるのとは異なり、本像の龕はごく単純な円券龕となっている。加えて、実際に窟内を歩いてみると、下層龕の龕楣によって像の脚部はほぼ確認できないことが分かった。もう1例は北周の第290窟で、中心柱西面に龕を開き、塑像の交脚菩薩を配する〔図4〕。本窟の中心柱は各面に大きな龕を1つ開くのみで、従前の中心柱窟が上下に龕を開くのと形態を異にする点が注目される。その尊格の検討にあたっては、他の面の龕内の脇侍が弟子像であることから主尊は釈迦と推測される一方、脇侍を菩薩とする点に差異化が窺われる。また、窟内最奥という位置から成道前の釈迦とも考えにくく、弥勒と同定して問題ないように思われる。壁画の作例も2例あり、北周の第430窟には東壁門口上部に交脚菩薩を中心とする説法図がある〔図5〕。管見では、莫高窟において説法図の主尊として交脚菩薩像を壁画で表す例はこれが最も古い。また、北周の第301窟南壁は壁面を覆う千仏中に説― 401 ―― 401 ―

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