鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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(1)構造及び構成上の変化法図を描き、その主尊を交脚坐とする(注6)。上述のとおり、北魏・隋に多数認められた弥勒交脚菩薩像が西魏・北周には激減していることが分かる。また、北魏や隋では一定の形式が存在したが、西魏・北周の交脚像の表現はそれぞれ異なったものとなっている。これはすなわち、弥勒に対する思想やそれに基づく表現が揺らいでいる状態を示すのではないだろうか。2.西魏・北周窟における変化と表現の特徴西魏・北周には窟の構造や窟内の世界観も大きく変化した。以下では、窟の形式や壁面構成から窺われる思想の変化を確認し、弥勒の表現の減少との関係を検討したい。北周の中心柱窟について論じた濱田瑞美氏は、北魏・西魏の窟は行道により仏を思念する窟内構成であったが、北周窟のプランは仏説法を主題の中心とし、仏法の永続性を示唆する、全く異なる内容となったことを指摘する(注7)。窟の中央に設けられた中心柱は元々仏塔を模したものであり、この周囲を巡る行道が莫高窟においても実践されていたと考えられるが、その際に思念する内容は北周に入り大きく変わったことになる。加えて中心柱窟は西魏・北周と時代が下るに従い減少しており、また、先述の西魏第288窟では下から、すなわち行道する者からは交脚坐が明確に見えないなど、窟内を巡るという修行形態が大きく変化したことを示唆する。窟内の壁面に目を転じると、北魏窟では壁面上部に天人たちの住まう天界を、その下に仏伝図や本生図によって地上世界の場面を表すという原則があった。北魏窟壁面の最上部に描かれた、屋根のある建物とその中の奏楽天人たちは〔図6〕、キジル石窟に見られる、兜率天上の弥勒菩薩を讃嘆する天人の系譜に連なると指摘されるが(注8)、西魏以降の窟に目を転じると、アーチ形の屋根を連ねた兜率天宮の表現は減少する〔図7〕。この上下構成は中心柱についても同様で、北魏の中心柱は仏龕を上下に設け、上層龕に交脚菩薩像、下層龕に如来像を配する例が多かったが、先に挙げた西魏第288窟は上層龕に交脚仏を配し、北周第290窟では上下に分けず柱の側面全体を龕とするというように、北魏以前とは構成が大きく異なっている。このように、天界と地上世界を上下に対比させる空間構成は西魏・北周の間に徐々に失われていったのである。― 402 ―― 402 ―

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