(2)東魏・北斉地域配し、左右壁には各3龕の仏像を(または龕を設けず、各3体の仏像を)配する窟である(注12)。すなわち窟内には計7体の仏像が安置されるため、過去七仏の構想が想起されよう。しかし一般に七仏を作る際は未来仏たる弥勒を菩薩の姿で表現するが、麦積山石窟ではほぼ同様な如来で構成され、弥勒が表現されているとは考え難い。すなわち麦積山石窟においても、北魏以前に認められた弥勒の造形が西魏・北周には失われたことが分かる。石窟以外では、北周の銘を持つ四面像が注目される。北周以外の時代に作られた四面仏では、坐勢の差異化や一面を菩薩とするなど、同定が困難だとしても、そこには明確に、別の尊格を刻む意図が見出せる。しかし北周にはこのような区別をせず、四面に似通った仏を彫刻する作例が確認できる(注13)〔図8〕。本像を取り上げた松原三郎氏は「異例である」と述べており、大きな潮流でなかった点は留意する必要があるが、本像が制作された背景については考察する必要があろう。以上のように北周の他の作例にも莫高窟と同様の傾向が見られ、より大きな規模の思想上の背景や、各地の影響関係を検討する必要性を示唆している。一方で、同時期の北斉の領域では弥勒の図像が作られ続けた。河北省磁県・河南省武安県の境に位置する響堂山石窟は、北斉に開鑿が始まり、隋唐まで造営が続いた石窟寺院である。ここには三世仏とみなされる三体一具の造像例も複数確認でき、例えば南響堂山石窟第5窟は、北壁に倚坐仏像、正壁と南壁に結跏趺坐仏像を配し、倚坐仏像は弥勒とみなされている(注14)。また、北響堂山石窟には『弥勒下生成仏経』の刻経が残されており、弥勒信仰の存在が確認できる。河南省安陽県に位置する小南海石窟は東魏から北斉の間に開鑿された仏教寺院で、中窟東壁には弥勒菩薩が兜率天で説法をする場面が浮き彫りされ、「弥勒為天/衆説法時」と榜題がつく(注15)。北斉の弥勒信仰を示す一例といえ、また、窟内は先の南響堂山石窟第5窟同様三壁三仏窟の構成をとることから、小南海石窟においても同時期の莫高窟や麦積山石窟とは異なる信仰様態であったことが分かる。このように北朝の東西で弥勒の表現の有無に違いがあり、弥勒の表現が失われる現象は西魏・北周のみに認められる特徴といえる。北魏が東西に分裂して以降、両地域は常に対立関係にあり国境も厳重であった。そのため、仏教文化及びその造形作品の交流がなされないまま、独自の文化に基づく様態が残ったと推測される。本稿では主要な例を挙げるにとどまったが、今後はより多くの事例や現地調査に基づく詳細な検― 404 ―― 404 ―
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