鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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討を行いたい。4.西魏・北周の作例から窺われる思想的背景以上の実作例の検討を踏まえ、西魏・北周で弥勒の表現が失われた理由について、現時点での見解を述べたい。北周において仏教に大きな影響を与えた史実としてまず想起されるのは、武帝による廃仏である(注16)。武帝は建徳3年(574)5月、仏教・道教の二教を廃すとして、経典や像の破壊、沙門道士の還俗を行った(注17)。廃仏は莫高窟のあった瓜州・沙州地区も例外ではなく、瓜州の阿育王寺、沙州の大乗寺は損壊の憂き目にあったことが記される(注18)。しかし石窟に関しては、制作の中断された窟が莫高窟に残る程度で(注19)、破壊の痕跡は認められない。また、廃仏以降に開かれたとされる窟とそれ以前の窟との間に主題の変化も認められず、北周の莫高窟等の造営と廃仏との間に大きな影響関係を見出すのは難しい。ここで、莫高窟の北周窟の窟内構成の変化について考察した王敏慶氏の指摘を元に、当時北周の地域、とりわけ莫高窟で涅槃経が流行していた点に着目したい(注20)。涅槃経は釈迦の入滅を叙述し、その意義を説く経典である(注21)。“一切衆生皆有仏性”を説く涅槃経は、統治階級内の矛盾が深まった東晋末・宋初の社会において、その矛盾を解消する役割を担い、その後南北朝に広がった崇仏の気風の下で流行したと王氏は指摘する。北周には、それ以前に見られなかった、法界の全ての衆生が悟りを得て仏となることを願う発願文が見られ、一般民衆の間にもこの思想が広まっていたことを示す。また、敦煌で発見された写経を見ると、西魏・北周には涅槃経の占める割合が高く、西魏には34件中9件、北周には25件中8件が涅槃経であった。これは涅槃の思想が敦煌一帯に流行していたことを示唆するといえよう。開鑿が始まって以来、莫高窟での基本的な修行は、西方の模倣から始まったと考えられ、仏菩薩の観想、すなわち過去現在未来三世の仏という具体的な尊名や説話を伴う存在をイメージするものであったと推測される。しかし北周に涅槃経が流行したことにより、全ての存在に仏性があり、仏となりうるという内容、すなわち具体性を失った「仏」という概念に思いを巡らすというように、その対象が大きく転換したのではないだろうか。おわりに本稿では莫高窟の西魏・北周窟に弥勒の表現が失われることを確認し、この時期には他の時期に比して千仏や仏説法図が窟内の多くの面積を占めることを指摘した。ま― 405 ―― 405 ―

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