鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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注⑴内容総録とは、各窟の建修の時代、形状やプラン、図像の内容を整理したものである。本稿でた、この傾向は莫高窟のみに認められる現象ではなく、同じ北周の域内でも確認できる一方、北斉では従前と変わらず弥勒が表現されていることを簡潔に示した。最後に北周域内に涅槃思想が流行していたとの見解に触れ、その表れが千仏や仏説法図である可能性を提示した。今後は莫高窟におけるより詳細な調査、すなわち西魏・北周の窟内に表される主題の同定やそれらによるプラン、当該期の間での変遷の検討を行う予定である。窟内の主題の検討にあたっては、涅槃経の流行を示す要素が確認できるかについても注視したい。また、窟自体の検討と並行して、当該期の敦煌文書について、涅槃経及びそれ以外のものの内容を確認し、石窟以外の面からのアプローチも併せて行いたい。は敦煌研究院編『敦煌石窟内容総録』文物出版社,1996年を主に参照した。⑵『大正新脩大蔵経』(以下、『大正蔵』と略称)14-418b~420c。⑶弥勒経変の他に菩薩を中心とした説法図が数点確認できる。三世仏思想に基づくと推測される例もあり、これらは別稿で取り上げたい。⑷西魏に開かれたとされる窟は第247、248、249、285、286、288窟の計6窟、北周に開かれたとされる窟は第250、290、291、294、296、297、298、299、301、428、430、432、438、439、440、442、461窟の計17窟。当該期の開鑿の時期について、本稿では前掲注⑴内容総録のほか、以下を参照した。宿白「敦煌莫高窟早期洞窟雑考」『中国石窟寺』文物出版社,1996年,214~225頁、樊錦詩ほか「敦煌莫高窟北朝石窟の時代区分」敦煌文物研究所編『中国石窟 敦煌莫高窟 第1巻』平凡社,1980年,199~215頁、李裕群『北朝晩期石窟寺研究』文物出版社,2003年、李崇峰「敦煌莫高窟北朝晩期洞窟的分期与研究」敦煌研究院編『敦煌研究文集 敦煌石窟考古篇』甘粛民族出版社,2000年,29~111頁、王敏慶『北周佛教美術研究─以長安造像為中心』社会科学文献出版社,2013年。なお、西魏から北周への過渡期に開かれたとされる第461窟は北区にあり、事前調査はできていない。⑸西魏・北周窟では窟の主尊として倚坐仏を配する例が多く、唐以降弥勒は倚坐仏として表現される例が増えるため、現地において西魏・北周の倚坐仏も確認した。しかしこれらの像は釈迦と同定できる要素、具体的には、阿難・迦葉を含む複数の弟子たち、鹿頭梵志やニガンタ(尼乾子)派の外道の姿などを龕の内外に備える例が多かった(鹿頭梵志やニガンタは外道であったが、いずれも釈迦に説き伏せられて帰依した。王惠民「執雀外道非婆数仙辨」『敦煌研究』2010年1期,1~7頁、岡村秀典「雲岡石窟における外道と魔王の図像」京都大学人文科学研究所・中国社会科学院考古研究所編著、岡村秀典監修『雲岡石窟 第20巻 第十七窟─第四十一窟 本文』科学出版社東京,2017年,1~22頁)。全ての倚坐仏がこれらの表現を伴うものではないが、弥勒と同定しうる要素を備える例がないことから、倚坐仏の尊格を弥勒とみなすのはやや困難であると考える。石松日奈子氏もまた、初唐以前の作例について、釈迦など弥勒以外の尊格である可能性が高いとする。石松日奈子「弥勒像坐勢研究─施無畏印・倚坐の菩薩像を中心に」『北魏仏教造像史の研究』ブリュッケ,2005年,241~255頁。― 406 ―― 406 ―

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