鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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⑹このほか、北周の第250窟には説法図の一部が残存し(内容総録では「経変一部残存」とする)、その表現は隋の第262窟の弥勒経変に通じるとも考えられるが、残存状況が悪く、詳細な検討は困難である。第262窟の弥勒経変については拙稿「隋代の莫高窟における弥勒経変相図をめぐって」『京都美術史学』1号,2020年3月,131~160頁参照。⑺濱田瑞美「敦煌莫高窟北魏・西魏時代の中心柱窟における窟内構造と尊像」『奈良美術研究』3号,2005年3月,113~130頁、濱田瑞美「敦煌莫高窟北周時代の中心柱窟における窟内構想」『横浜美術短期大学教育・研究紀要』4号,2009年2月,92~96頁。⑻宮治昭「キジル第一期のヴォールト天井窟壁画─禅定僧・山岳構図・弥勒菩薩の図像構成」『涅槃と弥勒の図像学─インドから中央アジアへ─』吉川弘文館,1992年,411~474頁。⑼末森薫『敦煌莫高窟と千仏図─規則性がつくる宗教空間─』法蔵館,2020年。⑽前掲注⑺濱田氏論文(2009)。⑾天水麦積山石窟芸術研究所編「内容総録」『中国石窟 麦積山石窟』平凡社,1987年参照。ただし、麦積山石窟には中心柱を設ける窟はなく、北魏窟の多くは正面及び左右の壁面に三世の仏菩薩を表すとされる構成である。莫高窟とプランが異なるため弥勒のとらえられ方については慎重に考察する必要がある。⑿魏文斌「麦積山石窟的分期、造像題材与佛教思想」『中国文化遺産』,2016年1期,30~42頁。⒀松原三郎「北周四面像の一形式」『中国仏教彫刻史論』吉川弘文館,1995年,151~155頁。⒁響堂山石窟については現地調査のほか、『中国美術全集彫塑編13 鞏縣天龍山響堂山安陽石窟雕刻』文物出版社,1989年、顔娟英「河北南響堂山石窟寺初探」宋文薫ほか主編『考古與歴史文化 下冊』正中書局,1991年等を参照した。⒂小南海石窟については現地調査のほか、顔娟英「北斉禅観窟的図像考─従小南海石窟到響堂山石窟」『東方学報 京都』第70冊,1998年3月、稲本泰生「小南海中窟と僧倜禅師─北斉石窟研究序説─」荒牧典俊編『北朝隋唐中国仏教思想史』法蔵館,2000年等を参照した。⒃塚本善隆「北周の廃仏」『塚本善隆著作集 第二巻 北朝仏教史研究』大東出版社,1972年,463~640頁、宮嶋純子「北周末より唐代初期における洛陽仏教の動向」氣賀澤保規編『隋唐洛陽と東アジア─洛陽学の新地平』法藏館,2020年,241~259頁。⒄『周書』「帝紀巻五 武帝上」。⒅『集神州三寶感通録』巻上(『大正蔵』52-407c)。⒆范泉「周武滅法与敦煌北周石窟営造的関係─以莫高窟第428窟供養人図像為中心」『敦煌学輯刊』2008年4期,114~122頁。⒇王敏慶『北周佛教美術研究─以長安造像為中心』社会科学文献出版社,2013年。 佛陀耶舍・竺佛念訳『長阿含経』巻第2「遊行経」(『大正蔵』1-11a~30b)、これらに基づいて大乗仏教の思想を述べた経典として、曇無讖訳『大般涅槃経』(『大正蔵』12-365a~912a)等がある。― 407 ―― 407 ―

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