(4) これら名画展の開催および外務省の「対支文化事業」における瀧の役割が十分に解明されていない。といった点である。ところで、新来の中国絵画の日本への流入と評価において内藤が果たした役割、ならびにこれらの絵画が内藤自身の絵画史観に及ぼした影響については、これまで杉村、陶徳民、邱吉および関西中国書画コレクション研究会が出版した書籍や論文によって明らかにされてきた(注2)。しかし、内藤と比べ、瀧による中国絵画の紹介と評価活動には以下のような特徴がある。第一に活動期間が内藤より長いこと、第二に瀧が主幹を務めた日英版『國華』およびそこで発表した中国絵画論のインパクトは、日本や中国のみならず、欧米の東洋学界にも波及したこと、そして第三に日本の美術行政にも影響力を及ぼし、新来の中国絵画に対する評価を近代日本に定着させたこと、などである。とりわけ瀧は『國華』での文筆活動にとどまらず、1910年代から内藤とともに古社寺保存会や国宝保存会の委員を務め、内藤が亡くなった前後、文部省所管の重要美術品等調査委員会を立ち上げ、自ら会長になったのである。こうして当時日本美術行政において発言力をもつ瀧は、同誌に掲載された、1900年以降日本に流入した新来の中国画から、35点が日本の重要美術品に認定、2点が国宝に指定されることに寄与した。その後も、瀧は外務省の「対支文化事業」として設立された東方文化学院の理事長を務め、戦前と戦中の日中芸術・考古学の領域においても、大きな力を発揮していたと想像される。以上の点に鑑みれば、近現代日中芸術交流史において瀧が果たした役割とその影響力は、久世が指摘した通り、従来評価されてきた内藤に匹敵するほど大きいだけでなく(注3)、欧米の博物館における中国絵画コレクション形成史を視野に入れると、むしろ内藤を超えていたと筆者は思う。とはいうものの、現時点では、瀧による書簡や題跋はほとんど確認されないため、新来の中国絵画が瀧の絵画観に与えた影響に関する言及は、せいぜい久世と筆者の論考のみで、瀧と中国人蒐集家との交流、および「対支文化事業」における彼の役割に関する研究は今日に至るまで、皆無である(注4)。そこで本論は、これまでの調査成果を踏まえた上で、近年新出の廉泉による『南湖東遊日記』を取り上げ、それを「対支文化事業」の一環として開催された唐宋元明展と宋元明清展と結び付けながら、瀧がこの二大名画展開催前後に『國華』に寄稿した主な元明清文人画論に着目し、その中国絵画史観における変化を考察したい。― 412 ―― 412 ―
元のページ ../index.html#424