鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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一、両名画展開催前の元明清文人書画に対する認識と評価元末四大家の真跡が近代に至るまで日本にほとんど伝存しない状況とは異なり、明清書画は黄檗僧や来舶清人によって長崎を経由してすでに江戸時代の日本にもたらされた。しかし、それらの大半は日本人が好んだ、夏珪、馬遠に代表される「宋元画」を範とする明代の浙派、ないし浙派の末流にあたる張瑞図、張路らの作品群であり、元末四大家、呉派、四王呉惲(王時敏、王鑑、王翬、王原祁、呉歴、惲寿平)といった中国芸術の主流と見なされる文人書画ではなかった(注5)。たとえ伝倪瓉、王蒙、沈周、文徴明の作品であっても、贋作の可能性が高い。筆者の調査によれば、両名画展開催前に、瀧が実際目にした中国人所蔵の上質な元明清文人書画は、恐らく1910年秋端方と羅振玉の邸宅で見た作品と、廉泉が1914年4月東京大正博覧会に出品・参観するために持参した小万柳堂コレクションではないかと思う(注6)。しかし、後に瀧が『國華』に寄稿した解説文のなかで、端方所蔵の王翬作品について、「評家は或は支那畫が清朝に至りて甚だしく退歩して見るに足るべきもの尠なきを歎するものあり、如何にも清朝は之を大體より見て畫技の衰へたる時代なるは否定すべからざるも、推賞すべきもの全くなしと云ふが如きは適當ならず、今ま此石谷の畫の如きは或は宋元名家の作に比しても甚だしく遜色ありと云ふべからず」(注7)と述べ、その芸術的価値を認めてはいるものの、内藤のような過大な評価に走らずに慎重な姿勢を示している(注8)。また、廉泉のコレクションについても、彼の大正3年(1914)4月23日の日記によれば、瀧は廉泉の収蔵から、伝王蒙、倪瓉の作品を含む15種類の元明清書画を選び、『國華』に掲載しようと企画したという。だが、筆者が調べたところ、この時、瀧は倪瓉の作品については一言も触れず、王蒙の作品を「殊に珍とすべく、近世南宗畫の淵源を窺ふのは好資料である」(注9)と評しながらも、実際1914の時点では同作品を掲載せず、掲載したのは宋元明清展以降だった(注10)。『國華』図版用の選択に関しても、廉泉は瀧をこの国(日本)の美術大家と称し、「彼に評価されると、作品の価値は十倍も高められ、将来的にきっと良い結果になる」(注11)と述べ、瀧の眼識を高く評価した。とはいえ、この時、瀧が選んだ明清絵画の作品は廉泉の目から見れば、やはり「最も日本人の好みに合うものばかり」だったという(注12)。これらのことから、両名画展開催前、中国人所蔵の元末四大家、沈周、文徴明、四王呉惲を代表とする元明清文人書画に対する瀧の姿勢は、中国人所蔵の北宋画に対する認識と同じく懐疑的で、どちらかといえば、まだ日本人所蔵の「宋元画」と「明清画」寄りだったと言えよう(注13)。― 413 ―― 413 ―

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