二、両名画展開催後の元明清文人書画に対する認識と評価ところが、中国人所蔵の元明清文人書画へ向かう瀧の眼差しは1931年に開催された宋元明清展を機に大きく変わった。同展と三年前に催された唐宋元明展の出品作に加え、1920年代後半以降、瀧は実に多種多様な元明清文人書画に出会い、中に偽作も混在していながらも、優れた真跡も少なからずあった。特に瀧が清朝内府所蔵の《湖荘清夏図巻》および宋元明清展に参加するために来日した蒐集家の龐元済(1864-1949)、呉湖帆(1894-1968)、狄楚青(1873-1941)と在日台湾人蒐集家の林熊光(1897-1971)らが所蔵する元明清文人書画の逸品を鑑賞できたことで、その鑑識眼が相当磨かれたと思われる。というのは、同展開催後、瀧が『國華』に発表した一連の論説における中国絵画に対する彼の評価は、これまで日本所蔵の「宋元画」「明清画」への偏りから、中国所蔵の北宋画、元末四大家、呉派、四王呉惲、さらには石濤、八大山人の作品をも重視するようになった姿勢が映し出されているからなのだ。なかでも、「釋道済筆廬山觀瀑圖解」(第493号、1931年12月)、「沈啓南九段錦畫冊に就て」(第495号、1932年2月)、「沈啓南九段錦畫冊中三圖解」(第498号、同年5月)、「呉鎮嘉禾八景圖巻に就て」(第500号、同年7月)、「文徴明筆 黄鶴山樵山居圖解」(第516号、1933年11月)、「董其昌山水帖解」(第541号、1935年12月)、「沈石田筆贈呉寛行畫巻解」(第545号、1936年4月)と題する論説群は、瀧あるいは『國華』同人の元明清文人画観の変化を映し出す重要な文章である(注14)。例えば、呉鎮の《嘉禾八景図巻》〔図2〕について、瀧は「林熊光君所蔵の嘉禾八景圖巻に至つては稀覯の珍品であつて、呉鎮の面目眞に躍如たるものがある」(注15)と賞賛している。その次に、瀧は『図絵宝鑑』(5巻、元・夏文彦)、『容台集』、『六研斎筆記』(7巻、明・李日華)などの文献を引用し、呉の画風を、「その描寫は水墨にして簡素を極め、全く意趣を以て見るの畫であつて、疎略なる裡餘韻の嫋々として絶えざるものがある。其處に所謂南畫の源泉を物語りつつ、文人高士畫の特徴を現はしているのである」(注16)と解説している。こうした元末四大家の作品に対する評価から、瀧の賞賛の眼差しは自ずと彼らの流れを汲む沈周や文徴明の作品にも向けられるようになった。「沈啓南九段錦畫冊に就て」において、瀧はまず入明時の雪舟がすでに明画壇の大家である沈周を知らないというエピソードから説き始め、その理由はそもそも足利時代、日本人が受容した中国画は宋元の院画や禅画ばかりで、文人画に関する十分な認識を欠いていたためだと批判した(注17)。瀧がいうには、元明の文人画に対する尊― 414 ―― 414 ―
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