崇は江戸時代に入ってからだが、名画を輸入する時期としてはすでに遅かった。というのは、元末四大家はもちろん、沈周や文徴明らの作品はこの時期の中国本国でもますます珍重され、容易に日本に伝わらなかったのだ。ゆえに明治以降の日本に流入し、元末四大家の精髄を存分に吸収した《九段錦畫冊》は沈周の真跡として、「最も珍とすべきものであらう」(注18)と評した。ちなみに、同作品の現在の所蔵先である京都国立博物館の学芸員・呉孟晋(当時)の研究によれば、同作品は流入当時、内藤湖南や長尾雨山から高い評価を得ただけでなく、瀧の紹介によって、1933年日本政府によって重要美術品に認定され、このことによって、同作品が近代日本における中国絵画蒐集・鑑賞史に重要な地位を獲得できたと同時に、明代絵画が日本に受容され、鑑賞される新しい局面を切り開いたという(注19)。なお、この時期、瀧は宋元明清展に出展されたもう一つの沈周作品、《沈石田筆贈呉寛行畫巻》に対しても、賞賛の眼差しをなげかけた。『國華』に寄稿した解説文の冒頭で、彼はまず「明代文人畫の宗と云ふべき石田沈周の畫跡は、古く我國へ傳へたるもの甚だ少く、偶ま是れ有るも多くは偽摹の作なるに、幸にして近年眞跡の而かも秀逸なるものが支那から齎し来られた」(注20)と切り出し、次に、この絵を《九段錦画冊》とともに取り上げ、その画風を以下のように評している。畫は呉寛を主人公として、其人の山中自適の状と、出山の景を寫したものの如く、層巒疊嶂の趣殊に絶妙である。山巌はすべて麻披皴を用ひて、董北苑の法に則り、樹水亭榭等の描寫にも宋元の古致を學び、總じて筆力の雄勁にして墨氣の盛なる眞に驚くべきものがある。之を九段錦畫冊などに比するに、氣暈正しく相同じきものがあるが、彼は錦畫にして是は墨畫なり、又構圖の規模大小の異るあり、是畫の如き長巻にして縦横奇を極めたるは、石田遺作中類を絶するものであらう(注21)。さらに、瀧は呉派作品だけでなく、内藤湖南に「奇逸」と片づけられた石濤や八大山人の作品に対しても高く評価した。例えば、前出の「釋道済筆廬山觀瀑圖解」と題する解説の中で、瀧は石濤の作品について、「石濤の畫は夙に我国へ傅来したものも尠くはないが、近年支那に於て見るものにも優物がある。今も本號に照相して載する所の廬山観瀑圖は、近年支那より傅へて住友氏の手に帰したもので、是は就中珍とすべきものと思ふ。畫の秀でた上に題語も面白く、書畫共に味がある」(注22)と絶賛― 415 ―― 415 ―
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