した。結び以上、これまでの研究成果を踏まえながら、今回の調査に基づき、唐宋元明展と宋元明清展開催前後に、瀧が日本語版の『國華』で展開した中国元明清文人絵画論を検証した。筆者の考えでは、瀧の絵画論および両展開催の意義は主に以下の二点に集約される。一つ目は、両名画展の開催によって、新来の中国絵画に対する評価が近代日本に定着し、それがその後欧米の博物館界にまでも広げられていったことである。1900年の義和団の乱を発端に、清朝宮廷コレクションを含む貴重な古美術品は大量に欧米や日本に流出した。両名画展は唐代から近世・近代に至るまでに日本に渡来した「古渡」「新渡」を含む中国絵画名品の展示・紹介の集大成であった。従来「古渡」より評価の低い「新渡」が、展覧会開催中に瀧精一のような日本美術史界の大物学者によって、『國華』に掲載・紹介され、また展覧会後にその一部(出品作)が国宝や重要美術品として国により指定あるいは認定されたことで、近代日本で高い評価を得るようになったのである(注23)。さらに日本国内にとどまらず、《五色鸚鵡図巻》と《湖荘清夏図巻》のような出展作は、その後中国や日本からそれぞれ流出し、ボストン美術館に購入された。言うまでもなく、その背後には瀧が主幹を務める『國華』が重要な役割を果たしたと考えられる。このことからも、展覧会と『國華』での瀧による文筆活動などを通して、日本固有の「古渡」とは異なる、中国に保存された書画群(その一部は新来として日本に流入)が戦後の欧米の博物館において評価されるようになった端緒が窺われる(注24)。しかし私見では、これよりさらに重要なのは、むしろ以下の二つ目の意義ではないかと思う。すなわち日中両国がそれぞれ欠けている作例を展覧会に出展したことで、両国の芸術家と美術史学者に中国絵画史全体像を提供したことである。彼らが互いの門外不出の逸品を一堂に鑑賞でき、これによって文人画の定義をめぐって中国絵画史に対する日本人美術史学者の認識を一新させた一方、日本を訪れた中国人蒐集家もまた、これを機に書画鑑識の技量を磨く機会を得たと考えられる(注25)。とりわけ、瀧は宋元明清展の会場で日中双方から出展された、多種多様でより優れた元明清文人書画を鑑賞できたことで、彼の中国絵画観は内藤のように「新渡」を過大に評価するのではなく、よりバランスのよい絵画観へ昇華し、今日の日本における東アジア美術史研究の礎となったのである。実際、瀧のバランスの取れた鑑識眼は、近年《泉声松― 416 ―― 416 ―
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