只今 持主ハ 存じ不レ申 いくらとも 高ハ不レ申候(注15)もっとも本書簡は冬木屋が所蔵した光琳筆「富士山、松島図屏風」を論じる際にしばしば引用される。其一の活動時期から本書簡は安政五年までに書かれ、その間に本冬木すなわち冬木屋本家が所蔵した「富士山、松島図屏風」が流出していることが確認できる(注16)。すなわち冬木屋では松江藩七代主松平不昧(治郷/1751-1818)に売却した道具がある一方で、中興名物「蔦細道蒔絵硯箱」を嘉永三年に教覚らに拝見を許可し、所蔵したことが確認できるが、「松島図屏風」のように、文政期に武清に拝見を許可したものの、その後に売却した作品があることがわかる。これらの点から八代目喜平次または九代目喜平次の頃に、改めて所蔵品を売却整理したことが確認でき、その際に「裂手鑑」、「群鶴蒔絵硯箱」、「花菱蒔絵火箸」が喜平次より辰次郎を介して、信房に譲渡されたものと考えられる。このことは冬木屋が売却するまで多くの作品を所蔵していた証左となる。四 むすび本稿では江戸絵師らとして酒井抱一、喜田武清、池田孤邨らが冬木屋本家と密接な関係にあったことが確認できた。特に抱一や武清は冬木屋で所蔵品を拝見したことは当時の江戸の絵師らが冬木屋所蔵品を拝見する機会があったことを物語る。特に孤邨は冬木屋さらには鴻池屋永岡家の両方に出入りしていた。そのため江戸時代後期の絵師の間での冬木屋の位置は、幕末の江戸において没落したという従来のイメージを覆し、当時の当主が文化の中心に近い距離感と、限られた範囲で隠逸に活動していたこととなる。文化期より嘉永期に至る三代の当主の活動時期には所蔵した道具と共に、其一が松澤信房に宛てた書簡から光琳筆「富士山、松島図屏風」が安政五年以前に売却されていた。また冬木屋当主から信房へは三件の作品が譲渡されていることが確認できた。特に当時の冬木屋の活動で注目すべき点は所蔵した光琳の作品を中心として光琳忌を催し、顕彰していたことである。幕末の冬木屋が所蔵した光琳作品が、冬木屋の祖先と光琳との直接の関係によりもたらされたのかは資料の不足から明らかにできないが、冬木屋歴代当主の収集品としてみた場合、光琳の所蔵家として光琳顕彰に果たした役割は大きいものがある。また冬木屋分家である小平次家の南茅場町の土地を取得― 31 ―― 31 ―
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