た。その活動内容について情報を整理しておきたい。画像事業の名称には事業の場所として「土山湾の孤児院」と記されている。土山湾とは所在地に由来する名称であり、孤児院自体は「聖なる幼子孤児院」とも呼ばれる。この事業で取り組んだのは、孤児の芸術教育と工房の運営である。芸術教育は土山湾の孤児院に設置された「聖ルカの中国学校」で行われた。この学校で教育を受け、版画制作を担当したのが「土山湾孤児院の図像工房」である。ヴァスールは事業を企画した背景について次のように述べている。すでに存在した工房では油彩画の教育が行われていたが、大きな成果を挙げておらず、増加する祭壇画の需要に対して供給が十分ではない状況があった(注12)。さらに、現地の人々には仏教の主題等が表された民衆版画が流布していることを指摘し、それらの図像について図版を掲載して解説をしている。ヴァスールはこうした中国の図像研究に取り組むだけではなく、中国の芸術教育についても触れており、中国人の木版技術の高さを評価している。こうした現地調査をふまえ、「同じ武器」で対抗すると記しているように、木版画制作によってキリスト教の図像を大量に供給する体制を整えることで、現地の需要に応えようと意図したことが理解できる。2-2 版画の内容と19世紀の芸術動向中国ではヴァスールが版画の下絵を作成し、孤児たちに印刷と彩色をさせたという。『中国雑録』にはその作品の一覧リストが掲載されている(注13)。リストは江南教区の土山湾孤児院の「中国現地の版画カタログ」と題され、フランス語と中国語の主題名があり、1868年にヴァスールが中国で構図を考えデッサンを作成したと記されている。次の頁にはもうひとつの一覧リストが掲載され、こちらはヴァスールによる「布教を目的とした画像に関するフランス・中国協力事業」と紹介され、フランス語のみで記されている。後者はフランス帰国後に作成されたものが含まれている可能性がある。ヴァスールによる中国とフランスで行われた事業の全体像はいまだ明らかではないが、初期の中国における活動とその後の活動には多少の変化がみられる。まず印刷術の変更である。中国では高度な技術が存在していたことから、木版印刷術が採用されていたが、フランスでは石版印刷術を採用している。中国でも後に石版印刷に切り替えられた。もうひとつは、版画の原画に過去や同時代の画家の作品の構図を借用している点である。これは選択した印刷術に左右された、もしくは布教の進展状況に合わせた図像の選択であった可能性もあるが、長崎に残る木版画群には中国人やその風俗― 426 ―― 426 ―
元のページ ../index.html#438