①日本における自然主義理解にみるエドゥアール・マネ受容・ゾラからのマネ受容─森と木下研 究 者:練馬区立美術館 主任学芸員 小 野 寛 子はじめに19世紀フランスを代表するばかりでなく、西洋近代美術の新しい局面を形成した巨匠として周知される画家エドゥアール・マネ(1832~83)が、我国においてどのように受け入れられたかを考察することは容易なことではない。拙論も含め、これまで日本におけるマネ受容に関する幾つかの論考が提出されている(注1)。それらの多くで共通して結論されるのが、早い時期からマネ受容の痕跡が点在するにも関わらず、受容の全体像については掴みどころがなく結論し難い状態にあるということだ。この大きな原因として、明治期の若い画家たちにとってマネという画家が、既に過去の巨匠であったことなどが指摘されているけれども、マネ受容に関する限界というものが非同時代性のみに起因すると断言するのは早計だろう。論者は、マネが日本に齎された経緯そのものが独特であったと考えている。それはマネに関するあらゆる紹介が、自然主義文学の始祖である小説家エミール・ゾラ(1840~1902)のマネ批評に基づく見解であり、画家マネの純粋なる紹介ではないためだ。恐らくマネ受容のはじまりが、美術批評という舞台から明治・大正の批評家たちの手による新しい芸術観の発見や自らの芸術理念の表明と一体であったからだろう。本論では、誌上でマネを紹介した早い段階の幾つかの資料に触れつつマネ受容を探って行くが、その過程で紹介者らのレアリスム、自然主義(注2)という芸術思潮に対する理解の文脈を背景としたマネ解釈が見えてくる。更にそれらの理論上のマネ理解が、どのように具体的な絵画作品に反映されているかを検討することで、我国におけるマネ受容の有り様を明確にしたい。日本でエドゥアール・マネの名を初めて誌上で言及したのは、軍医でありながら小説家、批評家、翻訳家として近代日本を牽引した森鷗外で間違いないだろう。それは明治22年(1889)に創刊された文芸雑誌『しがらみ草紙』第28号(明治25年(1892)1月25日)に掲載された「エミル、ゾラが没理想」(注3)に確認できる。これは坪― 434 ―― 434 ―2.2019年度助成
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