・自然主義受容とイポリット・テーヌし、「畫家の気テンパラメント稟に從って自然から受ける印象が異なる。」(注22)と個々の画家によって気質が異なることを指摘した。以降、木下の美術批評に「気テンパラメント稟」という言葉が頻出していることからも、彼の芸術観の形成にゾラの芸術的主義の与えた影響が明白である。この翌年に木下は、ドイツの美術史家で批評家のリヒャルト・ムーテルの影響からマネの芸術を「太陽」(注23)と称し、それを芸術観の指針とすべきと述べている(注24)。ムーテルの著作から印象主義を学び、受けた衝撃の大きさについては木下自身が認めるところである。また、明治44年(1911)から翌年にかけて生じた「絵画の約束」論争(注25)では、ドイツの美術批評家ユリウス・マイヤー=グレーフェの影響を受け、「Manetの理フェアスタンド解」(注26)を求めた。森のマネに対する認識は印象派のリーダーに留まったが、印象派に特別な思い入れのあった木下にとってマネは、アカデミックな旧来の芸術規範と折り合いをつけた新しい芸術潮流の重要な牽引役であった。森同様、木下もまた文学において自然主義を標榜しなかったけれども、ゾラの芸術的主張を消化し、更なるマネへの理解を深めていた。明治20年代から30年代中頃にかけての日本における自然主義受容は、ゾラを中心として見るのが妥当である(注27)。同時代の作家であったゾラは、他の自然主義の作家よりも早くその名を知られ、明治20年代には最も積極的に紹介された。そのために「〔……〕当時の日本ではゾラと自然主義が同一視」(注28)されていた。ゾラ紹介のはじまりは中江篤介(兆民)による『維氏美学』(ウジェーヌ・ヴェロン著作翻訳、明治16-17年・1883-84)であるが、最初のまとまった言及は既述の森による「小説論」と言ってよい。そして明治30年代に入り、ゾラと自然主義の影響が小杉天外らの具体的な作品となったことで我国における自然主義文学がはじまる。また併せて、ゾラの芸術観形成の源である19世紀フランスの実証主義思想の哲学者で歴史家、芸術批評家のイポリット・テーヌについても、この頃から熱心に読まれていた(注29)。早くは逍遥の『小説神髄』(明治18-19年・1885-86)に、テーヌの『英国文学史』(注30)からの影響が見て取れると指摘されている。続けて、明治24年(1891)から翌年の「没理想論争」を経て、「〔……〕早稲田派は逍遥以来写実文学に興味と同情をもってゐた。」(注31)ためか、とりわけ文芸雑誌『早稲田文学』はゾラや自然主義を巡る論文や翻訳を載せるに留まらずテーヌの紹介も行っている。テーヌの『英国文学史』は、早稲田をはじめ幾つかの私立学校の教科書として活用された。― 438 ―― 438 ―
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