鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
451/602

つまりは、同一視されたゾラと自然主義の積極的受容の中で、ゾラの芸術観の核を成し、「〔……〕時勢と當代の精神とを最も鋭く最も豊かに且最も精密に代表したるものなり〔……〕」(注32)であるテーヌにも目が向けられたことは必然である。このようにゾラと自然主義に併せてテーヌの実証主義思想が受容され、日本に自然主義の土壌が培われる中で、ゾラのマネ擁護に基づいたマネ像が受容の方向性を決定づけた。森と木下を繋ぐ時期に石井柏亭や久米桂一郎によって提出されたマネについての著述もまた、ゾラと自然主義によるマネ論を拠り所としている(注33)。そして、テーヌから芸術観を形成したゾラ、そのゾラによるマネの擁護論という関係性を明示したのが久米桂一郎である。久米は明治35年(1902)から明治36年(1903)にかけて、テーヌの『芸術哲学』(1882)の第1部、第1章から第2章の8項(注34)までを抜粋し、「テエヌ氏美術哲学」と題して計20回に亘り『美術新報』に翻訳連載している(注35)。そしてその連載途中で、「寫實派の文豪ゾラとマ子及ゾラの美術論」(注36)を同誌に発表したのである。この美術論は、1867年1月1日発行の『19世紀評論(La Revue du XIXe siècle)』誌に掲載された本格的なマネ論である「エドゥアール・マネ─伝記批評研究」の「人と芸術家」の章に久米が私見を交え、抜粋翻訳したものである。これらの翻訳からは、テーヌの思想がゾラの芸術観成立へ齎した影響に関する久米の十分な見識が読み取れる。ゾラは自身のテーヌへの思いを1866年2月15日発行の『同時代雑誌(Revue Contemporaine)』に「芸術家としてのH・テーヌ氏」(注37)として表明したが、この思想家への独自の解釈を展開しながら、『芸術哲学』「第1部 第1章 芸術作品の本質について」(注38)における一部をテーヌの芸術定義として引用した。同様に久米も明治36年(1903)2月5日号の『美術新報』掲載の「テエヌ氏美術哲学」第8回の中で、この引用部を強調していることからテーヌの言説の中でも、芸術定義を示す重要部分と認識していたのだろう。「芸術作品は、現実の対象の本質的で際立った特徴を明示することを目的とし、現実の対象がそうする以上に明瞭かつ完璧に重要な思想を伝えている。一連の関連しあう部分を利用し、その関連性を体系的に修正したとき、芸術作品は成功する。」(注39)続けてゾラは、テーヌの言う「特徴」を「芸術家の気質が与えた解釈によって自然以― 439 ―― 439 ―

元のページ  ../index.html#451

このブックを見る