術館)〔図6〕が代表的である。本作はマネの《草上の昼食》(1863年、オルセー美術館・パリ)〔図7〕を源泉とし、木立のある草原や登場人物が男女4名であることなどの表面的な要素に類似性が見られるものの、本質的には異質と言える(注52)。それは、マネ作品を源泉としながらも採用したものが表面的要素に留まっていることに起因している。洋画家の安井曽太郎が渡欧中に描いた《水浴裸婦》(1914年、アーティゾン美術館)〔図8〕は、川の流れる森を背景に4人の裸婦が水浴をしている。画面右端には、彼女らの着衣と思しき布地と2つの帽子が描かれており、これらの設定はまさに《草上の昼食》を想起させる。同時に、安井の裸婦はその技法やポーズからルノワールの《大水浴図》(1884~87年、フィラデルフィア美術館)も源泉としていることが察せられる。伝統的水浴図が主題でありながら、安井が採用した要素は近代的なものであった。しかしながら石井と同様に、マネとの類似性はあくまでも表面的である。つまり、《草上の昼食》から着想を得ながらも、社会風俗のアイロニカルな投影や、造形的側面における美術の規範への異議を申し立てなど、マネ作品の本質とされる特徴は模倣されていない(注53)。このような表れは、マネの作品紹介の不十分さの証とも言える。これまで考察した通り、ゾラと自然主義への理解の中で進んだマネ受容の基礎となったのは、作品の主題や意味内容の存在を否定したゾラによるマネ擁護論であった。その過程で作品への考察が十分でないまま、印象主義の首領として広く認識されたマネのイメージがそれ以上に展開することはなかったのである。おわりにテーヌからゾラへと受け継がれた実証主義へのアプローチの過程で、マネは受容された。ゾラの芸術理念に則って擁護されたマネを受け入れることは、マネ理解にひとつの方向性を与えた。彼を絵画における自然主義つまり印象主義のリーダーとして認識させ、作品の主題に意味内容はなく、モチーフは「単色の量塊の激しい対比を得る」(注54)ための口実に過ぎないとした理論がマネ論として浸透したのである。また同時に「芸術作品はある気質を通して見られた被造物の一隅である」という一文に集約されるゾラの芸術観は、自然主義受容の範疇を超えて広く吸収された。これは自然主義の賛同者ではない森がゾラの芸術理念に同調を示したことや、マネへの理解を促した木下がゾラの「気質」への深い理解を示したことからも明らかである。画家や美術批評家らに消化されたゾラの理念は、各々の芸術的主義の発見を促す源泉となった― 442 ―― 442 ―
元のページ ../index.html#454