に共通点が見出せる(注12)。《晴れた日の風景》の奔放でダイナミックな筆致と鮮やかな原色づかいは、初期の社会派リアリズムの閉塞感とは打って変わって、解放的で躍動感がある。こうした新たな画風の成立背景には、当時大きな芸術運動となっていたアンフォルメルの潮流があり、日勝はその潮流を、海老原の造形を手がかりとして消化しようと試みたものと考えられる。同様に、中村善策《張碓のカムイコタン》(1968年、第12回日展特選)〔図11〕も、風景画の制作に役立てられたものとみられる。日勝は公募展出品作に風景画を描かなかったが、1968年に帯広信用金庫からカレンダーの原画制作を依頼され、2つの十勝の景勝地を描いた。その1作目《扇ヶ原展望》〔図12〕については、既にこれまでの蔵書調査で、1951年の『芸術新潮』に掲載されたファン・ゴッホ《麦畑》〔図13〕の構図を踏襲したものとみられている。中村の《張碓のカムイコタン》は、2作目《広尾海岸》〔図14〕と画面中央の断崖の形状や全体の構図が類似している(ただし左右反転している)ことから、《広尾海岸》のイメージの下敷きにされたのかもしれない。《扇ヶ原展望》と《広尾海岸》には下絵が複数残っており、長らく現地でのスケッチをもとに描かれたものと考えられてきたが、ここでも先行する絵画の存在が指摘できる。3点目は、吉田西緡《舟型》(1969年)である。本作は先の2点のように制作時に参照されたものではなく、日勝が1969年5月に成人後はじめて上京した際に、現地で眼にした絵画である可能性が高い(注13)。この上京は生涯一度きりのものであって、彼の画業において特別な意味を持ったことは想像に難くないが、実のところ自作を出品した第8回独立選抜展の観覧という目的以外に、旅程や現地での動向に関する記録や証言が確認できない。今回ようやくそのひとつが吉田の《舟形》の実見と結びついたが、実はもう1点、日勝が眼にしたであろう絵画が浮かびあがった。それこそが、日勝の代表作《室内風景》の図像源として指摘されてきた、海老原暎《1969年3月30日》(1969年)〔図15〕である。3.《室内風景》と海老原暎《1969年3月30日》没年に発表された《室内風景》は、最もよく知られている作品である。画風の変遷を辿れば、1966年、67年の「画室」シリーズ全5点の発展形と位置付けられるが、この「画室」からの流れのほかにも、初期の社会派リアリズムの画風で繰り返し描かれた壁というモチーフや、中期の《死馬》の下絵で成立した膝を抱える人物像など、複数の異なる画風の要素を含んでいる。このことから、《室内風景》は画風変遷の流れ― 454 ―― 454 ―
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