鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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⑻日勝が関心を向けていたのは田中阿喜良初期(渡仏前)の画風で、よく知られたスタイルが確立される以前のものである。田中の初期作品には、棺に眠る死者(「犠牲者」と題されたものもある)や、その死を嘆く民衆、また拘束された人物などが描かれている。作者自身もこの頃の仕事について、「内灘とか焼津の問題とかを、かなり象徴的に、寓意的に扱っていた」、「思想的に描いていた」と述べている。『田中阿喜良生きる』(読売新聞社、1973年)、94頁。⑼この画風の転換期に興味深い逸話がある。日勝は1965年に《集う》と題した作品で、労働者風の青年たちの会合を描き、帯広の展覧会で発表したが、左翼思想への偏りを省みて同作を潰してしまったという。絵を潰した行為は他に知られておらず、かなり意識的に従来の画題やテーマからの脱却が試みられたものと推測される。⑽山田義夫《少女像》、与志崎郎《立祝》、織田広喜《ベネチアの少女》、川端龍子《海鵜》、山田正《山村の秋》、林竹治郎《積丹半島》、箕田源二郎《三池》である。⑾(無署名)「現代美術秀作展人とその作品(1)」北海道新聞、1969年6月9日。⑿日勝が独立展に出品していた当時、海老原喜之助は同展の重鎮であり、日勝は早くから海老原の作風や造形を知っていたと考えられる。さらに言えば、日勝の《死馬》の画題(愛馬との惜別)も、海老原の独立展出品作《友よさらば》(1951年、神奈川県立近代美術館蔵)から着想を得た可能性がある。⒀1969年の第8回独立選抜展(5月17日~23日、東京都美術館)に《壁と顔》を出品し、同展観覧のために上京した。吉田西緡も選抜展出品作家のひとりであるが、《舟型》を所蔵する佐賀県立美術館によれば、本作は同時期に文芸春秋画廊で開催されていた「吉田西緡個展」(1969年5月12日~18日、文芸春秋画廊)出品作である。吉田はこの前年に独立賞を受賞したことで同展新会員となった話題の画家であり、日勝が銀座の同画廊まで足を伸ばした可能性は高い。⒁川岸真由子、前掲「神田日勝の生涯とその作品─制作プロセスと画風展開をめぐって」、30-32頁。⒂菅訓章「取材ノート『室内風景』をめぐって」(『神田日勝記念美術館だより』第18号、神田日勝記念美術館)、2003年。⒃第9回現代日本美術展は1969年5月10日~30日に東京都美術館で開催された。⒄新聞がはじめて作品にあらわれるのは《画室E》(1967年)からであり、その後は翌68年の《室内風景》(1970年の《室内風景》とは別作品である)と《壁と顔》、69年の《ヘイと人》に描かれるが、いずれもその他のモチーフ同様、ペインティング・ナイフで描かれている。⒅『北村清彦教授北大退官記念論集 アートと、そのあわいで』(北海道大学芸術学研究室編、中西出版、2021年5月)収録の拙稿「神田日勝の制作方法、試論─収集された作品図版から」(同書、34頁-43頁)において、写真を典拠とした作例も含め、代表的な作例を抜粋し、日勝の作品制作の方法論について論じた。― 457 ―― 457 ―

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