④近代中国の女子洋画教育に関する基礎的研究─関紫蘭と日本洋画壇との関わり─研 究 者:九州大学大学院 人文科学研究院 専門研究員 武 梦 茹序 先行研究と問題の所在中華民国期の中国(1912-1949)は、長い歴史の中で、女性が洋画を学ぶことができた最初の時代であった。これまで洋画受容の中心地であった上海に設立された城東女学校や神州女学校でどのような洋画教育が行われていたのかについて先行研究で論じられてきた(注1)。そこでは、学校の美術カリキュラムを分析することで女性が受けた洋画教育が部分的に明らかにされてきたが、教育を通して彼女たちがどのような絵画を描いたのかという視点での研究は少ない。つまり、女性洋画家が師とする画家から何を学んだのかという問いを、具体的な作品の表現に即して検討するというアプローチが、これまでの女子洋画教育の研究に欠けているといえる。本稿で取り上げる関紫蘭(1903-1985)は、1920、30年代に上海で活動した女性洋画家であり、東京美術学校卒業の洋画家丁衍庸(1902-1978)と二科会の洋画家中川紀元(1892-1972)に師事した経歴をもつ。これまで関紫蘭の代表作である《少女像》(1929年)と《少女》(1930年)は、アンリ・マティスや安井曾太郎の受容を示す作品として位置付けられてきたが、彼女はいずれの画家にも師事したことはない(注2)。陸偉榮は、関紫蘭が中川紀元の画風の影響を受けたことを指摘しているが、作品の詳細な比較分析は行っておらず、両者の影響関係について推測を提示したにとどまる。つまり、関紫蘭が丁衍庸や中川紀元からどのような絵画表現を学んで自らの制作に活かしたのかという問題は未だ検討されていないのである。本稿では、筆者がこれまでに調査した関紫蘭と丁衍庸、中川紀元の絵画作品や文章に基づいて、彼女が二人の画家から何を学んだのかを、彼女が制作した女性像に即して検討したい。女性像は、関紫蘭が受けた教育の中で最も難易度が高いとされていた主題であり、丁衍庸と中川紀元に師事したことを通して彼女の作画技術がいかに向上していったのかを辿ることができる作品群である。本稿を通して、日中近代美術交流史における関紫蘭の作品の位置づけと意義を提示したい。一 関紫蘭と丁衍庸本節では、関紫蘭が丁衍庸の女性像からいかなる表現を学んだのかを検討する。関紫蘭は神州女学校と中華藝術大学に通っていた1920年代半ばに丁衍庸に師事した。中― 35 ―― 35 ―
元のページ ../index.html#47