鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
473/602

1940年代が進展する中で少しずつ言及されることが増えてきており、それらについては拙稿「フランク・シャーマンの戦後日本における交友と活動の軌跡─1948年の写真と手紙を中心に」において詳細を紹介している(注4)。シャーマン没後のコレクション紹介としては、次の4つが主要なものである。前掲『履歴なき時代の顔写真』は、インタビューの過程で回顧録と別に発行の話が浮上したもので、藤田嗣治はじめ多くの人物写真、シャーマンのインタビューからの抜粋、交友があった猪熊弦一郎、脇田和、仙波二郎の〔談〕が掲載されている。『フランク・シャーマンと戦後の日本人画家・文化人たち』展図録は、シャーマン旧蔵の日本人画家中心に80点以上の作品を掲載、米倉守、神奈川県立近代美術館時代から40年以上シャーマンと交友があった朝日晃、目黒区美術館学芸員の矢内みどりによるテキストが掲載されている(注5)。この2つは、シャーマンと直接親交があった人々の証言が集約された貴重な記録である。3つめが『河村泳静所蔵 フランク・シャーマン コレクション選』であり、『なぜ日本はフジタを捨てたのか』著者・富田芳和のテキスト、作品図版260点以上を掲載、2021年現在、作品図版掲載数が最も多い出版物となっている(注6)。最後が拙稿「フランク・シャーマンの戦後日本における交友と活動の軌跡─1948年の写真と手紙を中心に」である。シャーマン・コレクションには数千点に及ぶ写真と400点を超える書簡があるが、ごく一部を除いてほとんどが未公開・未整理である。それらを関連作家資料と照合し、書簡10点あまり、写真約90点を紹介、1948年中心にシャーマンの日本における足跡と交友を紹介した。その結果、シャーマンと日本との関わり方が、日本滞在中とそれ以降で変化していることがわかった。本稿では、その変遷を紹介する。学生時代にデザインや商業イラストレーションを学んだシャーマンは、戦前は、広告デザインなどの仕事に従事していた。1945年に来日し、最初は丸の内のGHQ、その後、新宿の伊勢丹で地図製作に携わり、1946年から凸版印刷板橋工場で、本国から送られてくる雑誌などを占領軍向けに再編集して印刷する仕事につく。現在、日本で知られているシャーマンの経歴は、この凸版印刷時代に藤田嗣治と親しくなり1949年の藤田渡米のため尽力したこと、社内に通称「シャーマン・ルーム」と呼ばれた部屋を設けて、多くの日本人と交友したことである。丸の内にあるGHQ本部から再編集したグラビアや雑誌を印刷するため板橋の工場まで車で往復していたシャーマンは、じきに凸版印刷内に専用事務所をかまえる(注― 461 ―― 461 ―

元のページ  ../index.html#473

このブックを見る