7)。GHQが凸版印刷を訪問したのは終戦の翌月で、米軍が押収した日本地図の英語改訳版の印刷を命じられた。その後、民間情報教育局の仕事も持ち込まれ、ニューズ・ウィーク、星条旗新聞など、軍および半官半民のアメリカ関係の印刷物受注が多くなる(注8)。シャーマンが担当していたのはこれらの受注物だったと思われる。「シャーマン・ルーム」について、毎日新聞記者だった船戸洪吉によれば「工場の一部、倉庫の片隅を改装したもの」でかなりな広さだったという(注9)〔図1〕。シャーマンには別に宿舎があったが、凸版で寝泊まりすることも多く、シャーマンの部屋にはキッチンとベッドが設置され、通訳のベッドも用意されていた(注10)。日系二世のグローヴ吉原という人物がシャーマンの通訳だったが、数名の社員も通訳や秘書の役割を担っており、営業課の飯田、製本課長の庄司喜蔵、営業部渉外課の鈴木和夫の3人の名前がわかっている(注11)。シャーマンは、凸版印刷に事務所をもつようになってほどなく、藤田を訪問し、親しく交友するようになる。藤田が凸版印刷の近くに住んでいることをシャーマンに伝えたのが社員であり、シャーマンが向井潤吉の紹介状を持参して藤田を訪ねたことはすでに複数の著述で知られている。シャーマンがはじめて藤田家を訪問した際には、庄司が同行していた(注12)。凸版印刷では、当時、戦後の新紙幣を印刷していたが、その新円図柄の審査員の一人が藤田であり、シャーマンが現れる以前から凸版印刷にとって藤田は仕事上の重要人物だった。1948年、シャーマンはさまざまな場所で藤田の写真を撮っているが、そのいくつかに飯田や庄司の姿がある(注13)。離日後、藤田が伊原宇三郎宛に書いた手紙(1949年6月4日付)に「シャーマンの下の飯田も猪熊の処に行ったり」「庄司等柳沢一派」とあり、シャーマンと親しかった村尾絢子の手紙にも「ミスターヨシワラはアメリカにかえりましたか、ミスターショージ、ミスターイイダは元気ですか」という文面がある。これらは、庄司と飯田が、通訳と同じくらいシャーマンに近い存在だったことを伝えている(注14)。シャーマンは、藤田を介して友人・後輩画家である猪熊弦一郎、岡田謙三、荻須高徳、佐藤敬、澤田哲郎、中村研一、中村直人らと交友するようになる。とくに猪熊は、シャーマンの交流の輪を大きく広げた。猪熊夫妻は「トワ・エ・モア」と名付けたダンスの集いをもち、当初の画家仲間から石坂洋次郎などさまざまな業界の人物が参加するようになっており、シャーマンもその常連の一人だった(注15)。「シャーマン・ルーム」を頻繁に訪れていた久邇邦昭〔図2〕は、猪熊のダンスパーティーでの写真が猪熊旧蔵アルバム(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵)の中にあることが確認できている。久邇は、飯田・シャーマンと親しい仙波二郎の学習院時代の友人であり、久邇― 462 ―― 462 ―
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