鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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1950年代以降と猪熊をつないだのはシャーマンと考えられる(注16)。仙波は、猪熊文子のことを非常に社交的で「交流がなかった人達が交流を持てたのは、あの方の功績が大きかったと思う」(注17)と回想している。頻繁にパーティーがあり、画家や文化人が集ったという「シャーマン・ルーム」だが、凸版印刷に赴任した1946年当時のシャーマンに日本の「画家や文化人」に関する知識があったとは考えにくい。実際に招待客を考案していたのは凸版印刷社員とその関係者であり、訪問客は藤田の知り合いや、凸版印刷に何らかのかたちで連なる人物が多かったと考えられる。シャーマンのもう一つの交友の軸は版画家だった。占領下の滞日アメリカ人は版画に関心をもち、版画家の家を訪問して作品を購入することがよくあり、シャーマンもそうした一人だった。関野準一郎は1946年12月に恩地孝四郎家の晩餐会でシャーマンに会い、翌年4月の第15回日本版画協会展に《シャーマン氏の像》を出品している(注18)。“Modern Japanese Prints: An Art Reborn”(1956年)の著者オリヴァー・スタットラーが来日したのはシャーマンより2年おそいこの年である。関野の長男準平・次男洋作は、当時の数多いアメリカ人訪問客の中でシャーマンとスタットラーの二人を記憶しており、二人が一緒に来たこともあったという(注19)。関野は、シャーマンの通訳だった吉原とも親しくなっており、シャーマンが頻繁に関野を訪問していたことが伺える。当時、版画家同士は頻繁な往来があり、シャーマンは、平塚運一や太田耕士らとも交友を広げている。シャーマンのもとには1940年代後半から50年頃にかけて版画家たちからの手紙や年賀状が残っているが、関野はとくに長期にわたって交友が続いた版画家である。関野とシャーマンが長く親交を続けることが可能だったのは、師である恩地の長女三保子がGHQに勤めていて英語に堪能であり、二人のコミュニケーションを助けていたことも関係したのではないかと思われる(注20)〔図3〕。猪熊弦一郎は、前掲『履歴なき時代の顔写真』の中で「シャーマンさんという人は一体何をする人かさっぱり解らなかった、というのが正直なところだ」と回顧している(注21)。これは、猪熊が1940年代から晩年までシャーマンと親交があったからこその率直な感想といえる。1950年代以降のシャーマンは、日米を行き来し、両国の美術関係者とネットワークをもち、展覧会企画に関わるなど、多方面で活動したからである。― 463 ―― 463 ―

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