鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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シャーマンがアメリカに帰国する1950年の5月、イサム・ノグチが来日する。猪熊はこのとき以降イサムと親しく交友するが、そのきっかけの一つをつくったのがシャーマンだった。シャーマンによれば、車を出してイサムを異母弟の野口通夫に会わせ、鎌倉の有島生馬・暁子親子の家を訪ね、父・野口米次郎の墓参りに連れていき、遅い時間に「友人の家があるから」と猪熊邸にイサムを連れていった(注22)〔図4~7〕。猪熊もシャーマンが「イサムを私の田園調布の家に連れて来た」と回想している(注23)。帰国したシャーマンは、1年ほど美術の勉強のためフランスに滞在する。パリではすでに渡仏していた藤田嗣治や荻須高徳と再会し、アカデミー・グランショミエールに通いながら、美術館を見たりスペインを訪問したり、ヨーロッパ滞在を満喫している(注24)。このパリ滞在中、シャーマンは藤田が交友をもっていた若い画家・金山康喜と知り合っている(注25)。二人のパリでの交友は1年に満たないが、シャーマンは金山という画家に好感をもち、1959年に金山が東京で初個展を開催したときには、会場に集った関係者の姿を多くの写真に残している(注26)〔図8~10〕。フランスから帰国した後、シャーマンは再来日し、1954年から翌年までアーニー・パイル劇場、その後は1959年まで座間キャンプで、アート・ディレクターとして働く。アーニー・パイル劇場(接収中の東宝宝塚劇場)は、当時は日本人が入れないアメリカ人向けのエンターテイメントセンターであり、シャーマンはその宣伝ポスターなどを手掛けた。座間キャンプでは軍関係の特別行事、慰問公演、スポーツイベント、演芸などの広報物を作成していた。1955年、シャーマンは、神奈川県立近代美術館で学芸員の朝日晃と知り合い、朝日を通じて土方定一とも親交を持つ(注27)。朝日は、藤田作品を収集するシャーマンに情報を提供し、新しくコレクションとなる作家を紹介した。また、朝日、土方との交友は、後年、展覧会企画への協力という新しい役割へと繋がっていく。朝日と出会ったのと同じ年の9月、シャーマンは日本の創作版画90点をニューヨークのメルツァー・ギャラリー(Meltser Gallery)に送って展覧会の仲介役を果たしている(注28)〔図11〕。1958年1月、岡田謙三が7年ぶりに日本に帰国して8ヶ月ほど滞在し、シャーマンは古い友人の一人として自由が丘の岡田家を頻繁に訪問する。岡田は6月に個展を開催し、ニューヨークの画廊主ベティ・パーソンズを日本に招待する。ベティは岡田らと京都・伊勢などに旅行し、一行に同行したと思われるシャーマンは、写真を何枚も撮り、篠田桃紅と澤田哲郎の姿もある〔図12~14〕。この滞在を通してベティと親し― 464 ―― 464 ―

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