鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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くなったのではないかと推察され、1960年代半ば、ベトナムに一時赴任し、戦争画を描くプログラムに従事した際、シャーマンはベティに助言を求めている(注29)。1959年、シャーマンは再度日本を離れて帰国する。同年6月、姉妹都市訪問記念として京都市からボストン市に茶室が寄贈され、裏千家第14代家元・千宗室がシェラトンホテルの茶会で亭主を、猪熊文子が客をつとめた。シャーマン・コレクションの写真には、千宗室と猪熊夫妻の写真が何枚もあり、このときの写真ではないかと推測していたが、猪熊旧蔵アルバム(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵)にほぼ同じ別カット写真があることから、それを確認できた(注30)〔図15~17〕。1940年代半ばからシャーマンと親しかった岡田と猪熊は、1950年と1955年にそれぞれ渡米してアメリカで成功をおさめた日本人画家となっていた。岡田や猪熊にとって戦後まもない時期から交友があるシャーマンは心強い存在だったはずである。ニューヨークの猪熊邸は訪米する日本人の社交場であり、シャーマンも常連の一人だった〔図18〕。10年を超えるシャーマンの日本滞在期の日本人との交流は個人的なものだったが、この頃から、それまでに築いた人脈を日米美術界の交流に生かそうとする活動が見られる。1960年、ニューヨークのメルツァー・ギャラリー(Meltzer Gallery)で、澤田哲郎の個展を開催、1962年には同じくオズグッド・ギャラリー(Osgood Gallery)で「JAPANESE ARTISTS」展を企画している(注31)〔図19~21〕。シャーマンは、アメリカで日本人画家を紹介するだけでなく、日本でのアメリカ人作家の展覧会企画にもいくつか関わっている。1959年から60年にかけて、朝日晃、土方定一とカルダー展開催について頻繁にやりとりした手紙が残っている。展覧会は実現しなかったが、このとき、アメリカにいるシャーマンと日本の朝日、土方との英文手紙の訳をフォローしたのが、座間キャンプ時代、シャーマンのスタッフの一人だったポール渡部だった〔図22〕。朝日は1970年に東京国立近代美術館で開催されたベン・シャーン展はシャーマンの「陰の助力」で実現したと述懐している(注32)。おわりにシャーマン・コレクションについては、藤田嗣治をはじめ交友のあった作家の研究者間で関心はもたれているが、調査が進んでいるとは言えない状況にある。拙稿「フランク・シャーマンの戦後日本における交友と活動の軌跡」および本稿でもシャーマンの多様な活動のごく一端を紹介したにすぎない。一部であるがシャーマン・コレクションの資料照会を可能にしたのは、ここで紹介した関連作家らの日記や手紙であっ― 465 ―― 465 ―

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