猪熊弦一郎〔談〕「シャーマンさんの“シャッター・チャンス”」注⑵、8頁 1991年2月5日、シャーマンはインタビューの中で “have a cup of coffee. Wouldnʼt you?” “A littlefurther. My friendʼs house we could stop at. I know itʼs late, but they wonʼt mind.” と言って田園調布の猪熊家に連れて行ったと語っている。 注⒂、8頁. 荻須美代子の手紙(1993年2月22日付)、シャ―マンのインタビュー、注⒁「藤田嗣治 伊原 注⑵、63頁で、シャーマンは金山とグランショミエールで一緒だったとあるが、金山がグラン 写真の瀧口修三については、元・神奈川県立近代美術館学芸員の橋秀文からの教示による。 朝日晃「SHERMANが見たもう一つの戦後の洋画史 その周辺とコレクション」注⑸、8頁に⑼朝日晃「藤田嗣治『日本脱出』の手紙」『芸術新潮』、1974年、87~88頁⑽仙波二郎「『親日家』として、ハーンやライシャワー以上の貢献をした人」注⑵、88頁⑾飯田については姓しかわかっていない。船戸洪吉『画壇 美術記者の手記 レアリスムの行方「藤田嗣治」』美術出版社、1957年、146頁、庄司喜蔵については「秘蔵写真館」『読売新聞』1988年5月11日、鈴木については注⑵、76頁、鈴木和夫『八十歳のラブレター』2006年、210~211頁⑿1991年2月4日、シャーマンのインタビュー“ I went with a little man from Toppan. He was a chiefof the bindery. And he was a charming little gentleman. Always laughing and carefree. Just perfect forFoujita. ”. 通訳にその人物の名前を問われ“Mr. Shoji”と答えている。⒀注⑷参照。⒁佐藤幸宏(監修・翻刻)、藤原乃里子(翻刻・校訂)、齊藤千鶴子(校訂)「藤田嗣治 伊原宇三郎宛書簡 1949-1956」『北海道立美術館・芸術館紀要 第27号』北海道立近代美術館他、2017年、2頁 「柳澤」は柳澤健、1948年に藤田らとの対談『パリの昼と夜』出版、印刷は凸版印刷。村尾絢子からシャーマン宛、日本語の手紙(V-B-3-0319)は年不明1月17日付、凸版印刷株式会社宛のため1947-1950年のもの。村尾は、当時、猪熊に師事しており、脇田和の家にシャーマンをはじめて連れて行ったのも村尾。⒂猪熊弦一郎〔談〕「シャーマンさんの“シャッター・チャンス”」注⑵、7~8頁⒃久邇邦昭(1929-)は旧皇族、1951年学習院大学卒業。仙波二郎の友人で「シャーマン・ルーム」に「しょっちゅう来ていた」注⑵、89頁⒄仙波二郎注⑵、89頁⒅『関野準一郎展』図録、青森県立美術館、2014年、193頁⒆2020年3月、関野準平、関野洋作から聞き取り。⒇2020年3月、関野準平聞き取り。関野からシャーマン宛英文手紙〔図3〕に関して、当時の父・関野が、自力でこの英文を書くことは不可能だったこと、また、文面の特徴や恩地孝四郎の名のアルファベット表記から、恩地三保子が英文を書いたものを父が書き写したのではないかと推察している。手紙の中には、シャーマンの通訳だった吉原の結婚についても書いている。また、1955年の関野の日記(遺族所蔵、資料提供:青森県立美術館総括学芸主幹菅野晶)に、シャーマンが準平・洋作を鎌倉へドライブに連れていったとの記載があり、二人もそのことを覚えている。宇三郎宛書簡 1946-1956」、4頁ショミエールに通ったという記録はない。はじめての出会いは「世界ガラス展会期中」とある。同展会期は1955年6月18日-7月31日― 467 ―― 467 ―
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