華藝術大学を卒業した1927年に関紫蘭が制作した《幽閒》〔図1〕《孔雀》〔図2〕《秋水伊人》〔図3〕をみてみよう。3点とも画面中央に女性の半身像を描き、背景に木や草、遠方に家屋を描く。《幽閒》は、中華藝術大学で開催された絵画展覧会に出品された作品であり、同展には丁衍庸の《青春》〔図4〕も出品されていた。丁衍庸と関紫蘭の作品を比較すると、上半分に太い線のある目、輪郭線が引かれた鼻孔、菱形の唇で構成される顔の表現が類似していることが指摘できる。また、関紫蘭の《秋水伊人》と丁衍庸の《青春》は、モデルの髪と衣装のシルエットを肥痩のある線で描く点が共通する。関紫蘭と丁衍庸の作品が類似していることは、1930年に上海で開催された関紫蘭の個展の展評でも次のように指摘された。 (関紫蘭は)師匠から受け伝えた教えに忠実に従った。故に丁先生の神髄をみな得ることができている。かつ画法作風、筆触色調もまた丁の作品にきわめて似ている。それゆえ、数年前關女士の作品が儉德會で展示された時、妬み謗る者が言った。これは丁のものにすぎない。なぜ關というのか。關はおそらく絵を知らない者だ(注3)。展評を書いた蒙胥は、関紫蘭と丁衍庸の画風や筆触、色使いが類似していることを指摘し、関紫蘭が師の神髄を学び継承したと高く評価する。一方で、関紫蘭の作品を丁衍庸の剽窃だと批判する意見もあったことが上記の文章から窺える(注4)。評価の違いはあれども、当時関紫蘭と丁衍庸の作品が近似しているという意見は確かにあったことが分かる。また、1936年に批評家の梁得所は、「丁氏の模倣をする学生も多かった(注5)」と述べており、関紫蘭以外にも丁衍庸の作品を取り入れていた学生がいたことが考えられる。実際に、関紫蘭と同じく中華藝術大学で丁衍庸に師事した司徒奇(1904-1997)による《芸人之妻》〔図5〕に見られるモデルの顔貌表現も丁衍庸の《青春》と相似している。つまり、1920年代に丁衍庸の女性像を模倣する画学生が一定数存在していたのであり、関紫蘭もその内の一人だったとみることができる。それでは、関紫蘭はどのような意図のもとに丁衍庸の女性像の表現を取り入れたのだろうか。この問いについて考えるために、丁衍庸が女性像を描く上でどのような意識を持っていたかについて確認しておきたい。丁衍庸は1922年から25年まで東京美術学校西洋画科に留学し、卒業制作に《自画像》〔図6〕と《化粧》〔図7〕を提出した。― 36 ―― 36 ―
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