《自画像》では、人物の顔の表現については、骨格や筋肉を的確に捉え、細密な陰影表現を施して立体感を出しており、和田英作の教室でアカデミックな写実表現を習得したことが窺える。一方で、髪や背広のシルエットは、絵筆による曲線で描いている。この曲線の表現は、丁衍庸が東京美術学校卒業後に帰国し上海で教鞭を執っていた頃に制作した《少女》〔図8〕と《読書之女》〔図9〕でも用いられている。この2点では、モデルの手足、袖、スカートのひだ、ワンピースのシルエットを肥痩のある線で描く。このような線の表現は、東京美術学校で丁衍庸が師事した和田英作の作品にはみられないもので、別のルートから学んだことが推察される。実は、丁衍庸は日本留学期に参観した仏蘭西現代美術展覧会で見たアンリ・マティスの作品に感銘を受け、関連書籍を購入して勉強したことを記している(注6)。丁衍庸が参観したと推測される第2回仏蘭西現代美術展で展示されたマティスの《白衣の女》や、丁衍庸が購入した可能性のある中川紀元著の『マチスの人と作』(1922年)所収のマティスの《白い羽根帽子》〔図10〕では、滑らかな線によってモデルの身体や帽子、衣服の輪郭線が引かれている(注7)。丁衍庸はマティスの絵画について「形式においては、非常に『単純』でかつ『稚拙』でありながら、それが包括する内容は非常に『広大』で『複雑』である。(……)わずかな筆さばきの中に、我々人類の無窮の意味を啓示し得ている(注8)」と述べており、丁衍庸はマティスの簡略的な筆遣いの中に深遠な意味を見出していたようだ。つまり、丁衍庸は、筆致を残さないような緻密な陰影表現で対象を写実的に描く技術を東京美術学校の教育を通して身に付けたものの、マティスによる筆の線によって対象を簡略化して描き出す表現にも強く惹かれていたのである。丁衍庸は上海で教鞭を執っていた1925年頃から「写実はやめ、線の表現を精一杯頑張るようになった(注9)」と記しており、東京美術学校卒業後は絵画における線の表現をより重視するようになったことが分かる。丁衍庸がマティスの作品に感化され、線の表現を重視していた時期は、まさに関紫蘭が彼に師事していた時期と重なる。つまり、丁衍庸を通して、関紫蘭は対象を緻密な陰影表現によって写実的に描くよりも、線の表現で描く練習をするようになったのである。関紫蘭が1927年に描いた《秋水伊人》では丁衍庸の《青春》と同じく衣服のシルエットを線で表現しているが、モデルの身体は平板である。それに対して、2年後の1929年に関紫蘭が描いた《少女像》〔図11〕では、モデルの衣服の輪郭線や模様の線表現は丸みを帯びた身体とチャイナドレスの生地の質感を巧みに描き出している。丁衍庸の線表現に対する意識を関紫蘭が吸収し、線の表現でもって女性モデルの身体の曲線美や華やかな衣装をダイナミックに描く技術を獲得したのである。― 37 ―― 37 ―
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