1、津田青楓と青楓の図案津田青楓は、京都市上京区(現中京区)押小路麩屋町、江戸時代から続く生花「去風流」の家元に生まれた。二つ年上の兄が後に西川一草亭の号で家を継ぎ、大正から昭和にかけて生花界で活躍する。青楓は、兄とともに幼い頃から四条派の画家・竹川友廣から絵を習っていた。小学校卒業後に三条室町にあった白生地屋の「千吉」(千切屋西村吉右衞門)に丁稚奉公に出され、習っていた絵を活かして図柄の新案の考案を任されることもあったという。明治30年(1897)に京都市立染織学校速成科に入学、また、同じ頃に日本画家・谷口香嶠に入門した。明治33年(1900)から約3年間兵役につき、除隊後はふたたび香嶠塾に通うとともに、京都高島屋図案部に勤務したが、明治37年(1904)に再び応召。旅順陥落や203高地の戦いを経験した。明治39年(1906)の帰国後も香嶠塾に通い、さらに関西美術院で油絵も学んでいる。明治40年(1907)、農商務省海外術業練習生としてパリへ渡り、アカデミー・ジュリアンで歴史画家のジャン=ポール・ローランスに学んだ。明治43年(1910)の帰国後は東京に移り、高村光太郎や富本憲吉らとともに工芸活動に積極的になる。また、夏目漱石らとの交流や装丁の仕事、さらに《犠牲者》(1933年、東京国立近代美術館蔵)に見られるように、昭和前期にはプロレタリア運動に接近したことでも知られる(注2)。青楓が図案集の刊行に携わったのは、パリに留学する前の明治29年(1896)から明治39年(1906)までの10年間である。その間に13タイトル、34冊の図案集と6号の雑誌を刊行している。〔表1〕に青楓の図案集をまとめた。このほか、複数人の図案を集めた図案集にも参加しているが、編者として携わっているものではないため、本稿では除いている。図案集の内容を見ていくと、まず、織物や刺繍、更紗など様々な種類の古裂の写しを掲載したもの(②『華橘』〔図1〕)、染織に応用されることを想定されたと考えられるもの(③『華紋譜』〔図2〕、⑤『図案集』、⑥『紋様小品』、⑧『染織図案』)がある。京都という染織がさかんな土地柄と、白生地屋での丁稚奉公の経験、京都市立染織学校での勉強、さらに京都高島屋図案部での勤務を考えると、染織図案が中心であるのは自然なことであろう。この他、画集のように楽しむことができる④、⑬『青もみぢ』〔図3〕もある。既に人気図案家だった神坂雪佳も『ちく佐』といった同様の図案集を刊行しており、当時人気の形式であったようだ。青楓の図案に変化が見られるのが⑦『うづら衣』〔図4〕以降、特に⑨雑誌『小美術』〔図5〕、⑩『小美術図譜』、団扇の図案集⑪『ナツ艸』〔図6〕⑫『落柿』である。『うづら衣』は、兵役中に写生したスケッチを図案化したもので、風景や植物の図が― 484 ―― 484 ―
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