中心である。描いた日付や場所、描かれているものなどが画中に書き込まれており、青楓は第3巻の序文でこれを「写生図案」と言っている。既存の図案からではなく、元となった実際の風景が想像できるような写実性のある図や、琳派風の図、当時新たに流入したアール・ヌーヴォーの影響が見られる図など、青楓の挑戦を感じさせる。同序では、「図案家は過去の様式画でいえば旧来の流派を一々学んで世人の要求次第にどんな物でもやると云様なことではいかない そんな物は悉く捨てて自己は自己の図案を作らねばならん」と述べている。さらに「図案は決して工芸的の物でないから図案家は世間の嗜好とか当時の流行とかそう云事に頓着する必要はない矢張画家のやる様な工合に自己の思想に重きを置いて自己の感想を現はした図案を作る事に勉めておればよいのだ」とも述べている。この頃、兄の一草亭もスケッチブックを持ち歩き、景色や草花を図案化する練習をしており、青楓が営舎の近くに借りた常蓮華院にも度々訪れたといい(注3)、兄弟でスケッチからデザインを生み出すという試みをしていたようである。『うづら衣』は全5巻の予定で刊行されていたものの、売れ行きが芳しくなく、結局3巻で打ち切りとなってしまう。第3巻の序で青楓は「今後の著書は矢張以前の様な職人的図案を少くマ マも半分は加へる事にしてやって行こうと思う何と云っても食はずに働く事は出来ない」と述べているように、彼の独創性を追求しようとした図案が、世間には受け入れられなかったのであろう。しかしこの時の考えは、後述する「小美術会」の結成や雑誌『小美術』や『落柿』の図案へと続いていく。2、小美術会と『小美術』⑨『小美術』は、明治37年(1904)に兄の一草亭と、幼馴染で漆芸家の浅野古香とともに結成した図案の研究会「小美術会」の機関誌である。文字は活版印刷、図版は多色摺木版で、当時知識人たちの間で評判だった『國華』の大きさであり、ほぼ毎月出版するという、若者の同人誌としては贅沢なものだった。表紙は青楓によるアール・ヌーヴォー風のデザインで、中の挿図やデザインも三人によるものだった。『小美術』第1号の序文には「小美術は因循姑息なる今の図案界に、真率の研究を積みて、大いに斬新の趣味を鼓吹せんとする小美術界機関誌なり」と意気込みが語られている。『小美術』の名前は、「純粋美術を大美術、応用美術を小美術」と西洋人が言っていたことから名付けたと、一草亭が第5号の中で述べている。これはウィリアム・モリスのレッサーアーツ(Lesser Arts)のことと考えられ、彼らの新しい図案に対する意欲が表されているようである。― 485 ―― 485 ―
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