内容は、第1号の「図案家の職人主義」にはじまり、第2号「京都図案会展覧会評判記」と「図案小話」、第3号「黙語先生を訪ふ」、第4号「図案の線に就て」と「美術館の図案批評」、第5号「図案家としての尾形光琳」、第6号「模様画の色彩に就て」と、各号に図案に関する文章が掲載されている。さらに、多色摺木版の図案が約7図ずつ、それに対する講評というのが基本的な構成である。⑩『小美術図譜』はこの掲載図案を全て所収した図案集である。『うづら衣』に見られるような写生を元にしたものや、アール・ヌーヴォーの影響が見られるもの〔図7〕、当時流行していた絵葉書を想起させるもの〔図8〕などがある。この他、青楓の師である谷口香嶠や京都に新しい図案を紹介した浅井忠を顧問に迎え、二人への聞き書きや、彼らによる図案の講評も掲載されており、香嶠や浅井の図案に対する考えを伺うことのできる貴重な資料でもある。なお、青楓は小美術会の結成から約3ヶ月後に兵役で入営している。一草亭や古香らとの手紙のやり取りや、休日に会うことはあったようだが、『小美術』の後半の編集には青楓はほぼ関わっていなかった可能性もある。それでも、図案家の職人主義を否定する点、写生から独自の図案を描こうとする点、香嶠や浅井に教えを受ける立場としても、青楓は小美術会の考えと意見を同一していたと考えてよいだろう。3、『小美術』への批判と支援『美術新報』(注4)の「新刊紹介」に記載されるなど、注目もされていた『小美術』だったが、結局は6号で廃刊となってしまった。青楓の日露戦争への徴兵や、部数の伸び悩みが主な原因であったと考えられる。大日本図案協会の機関誌『図按』第27号「小美術(第一巻第二号)を見て」に、6ページにわたる『小美術』への痛烈な批判が掲載されている(注5)。ここでは、まず『小美術』が名前からして「図案とは小美術であろーか美術の小なるものとは実に異様なものだ」と、小美術会が意味を誤解しているのではないかという言及にはじまる。「中の挿絵も互票ママも余り気取り方がはげしい為か余り押しの強いと思はれる点がある忌憚なく言へば盲蛇のことのみが多いのは如何であるか。」さらに、図案は工芸製作を離れて成立しないと知っているはずの青楓や古香が製作しているものは、図案の定義にも入れられないのではないか、と、全面的に批判している。これに続けて「京都の出版物には皆此の弊がある」と述べており、これは『小美術』に限ったことではなかったのかもしれない。このほか、第2号に掲載された図案についても、厳しい評を述べ、応用するものを想定せずに製作された、「モティーフ」でしかないというこ― 486 ―― 486 ―
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