鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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とが述べられている(注6)。これに対し、一草亭が「蘿窓抱月子に與ふ」と題して『小美術』第5号内で以下のように反論を掲載している。(前略)目下の図案界はこの雑駁なやり方が頗る適当にて候。最も絵模様許りの考案は図案としては元より完全な物に非ず云はば未完成品にて、尚譬えて申さば人物画家が人物全体を描かずして、只手や足丈けを写生して夫を世間に発表して居ると同じく、到底満足な画とは申されず候得共、併夫でも世間の画師が満足な人物画が描けず、人形同様の物を描いている時代には、手一本、足一本でも完全に画く工夫をした方がましに候。(中略)図案も何の図案、彼の図案と一々製作の出来る様に寸法から製作法の注意迄して見た所で肝腎の意匠が拙ければ何の益にも立ず夫れよりか絵模様丈けでも今少し思想の健全な物が得たき物に候。(中略)単に筆先で現はれたる模様の美を研究して夫れを雑誌等にのせて模様と云物の趣味を世人に注入して置く杯も是等不平連の仕事として頗る適当の方法かと考候(後略)ここで述べられていることは、小美術会の考えの根本であろう。『小美術』第3号「黙語先生を訪ふ」には、小美術会が浅井忠の自宅を訪ねた時のことが書かれている。この時が初対面でありながら、浅井は彼らを迎え入れ、『小美術』第1号を見て「もっと突飛でなければ」「大いに騒がなくちやいかぬ」と面白がったという。浅井の言葉に大いに奮い立たされた彼らは、浅井の芸術観にも影響を受けていただろう。明治39年(1906)の一草亭の日記には、「小美術会の名が却て此頃ニナツテボチボチ世間ニ知れて来た様子ナリ」と書き付けてある。「東京の画家を紹介する為め共ニ同伴にて浅井さんへ行ったら大イニ小美術会の話が出て、先生ほめておった「何れハきっと名を揚げるだろう」って」(注7)。彼らに「大いに騒がなくちゃいかぬ」と励ました浅井が度々彼らの活動を記憶にとどめて話していたことは、実際に小美術会を面白がっていたことの証であろう。4、『小美術』と『図按』の違い『小美術』に対する辛辣な批評が掲載された『図按』は、東京工業学校工業図案科の教員や在学生、卒業生が結成した図案の研究会である、大日本図案協会の機関誌である。東京工業学校は、明治30年(1897)に工業図案科が設置され、工業化を前提と― 487 ―― 487 ―

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