鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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以上のことから、関紫蘭は丁衍庸から線の表現によって対象のエッセンスを描き出すという手法を学んだとみることができるが、一方で先述のように関紫蘭の作品を丁衍庸の剽窃だと非難する意見もあったことを鑑みるならば、丁衍庸の表現を取り入れるだけでは十分ではないという意識が関紫蘭の中にあった可能性が考えられる。次節では、関紫蘭が日本に留学したことで交流をもつようになった中川紀元から学んだ表現について考察したい。二 関紫蘭と中川紀元1927年中華藝術大学を卒業した後、関紫蘭は陳抱一の勧めで日本に渡り、文化学院で中川紀元と知り合った(注10)。1930年に中川紀元は写生旅行で上海に赴き、関紫蘭の家を訪れ、彼女をモデルに《関紫蘭女士像》と《緑衣》〔図12〕を描いた。中川の《緑衣》では、画面左に木製の台と花が生けられたイパーンを置き、その横に関紫蘭を描く。彼女の両目の下には濃い影があり、鼻背は右に大きくカーブし、目のしわやでこぼことした鼻から、疲れや老いさえも感じられるかのようである。中川は、1922年に自らの制作について語った際に「自分の性分としてどんな美人に対してもヴィナスを連想するかわりに何かアラを捜して漫画化(カリカチュリア)したくなる(注11)」と述べたことがあった。女性モデルの容姿を美しく描き出すのではなく、顔の特徴を見つけ、それを誇張するような絵画表現を好んでいたのである。1930年に関紫蘭に会った大熊卓蔵は、「大きな情熱的な眼(注12)」と彼女の眼が印象的だと述べ、中川も関紫蘭は「頗る美人(注13)」とみていた。この頃に撮影された関紫蘭の肖像写真からは、目の下にアイシャドウのような化粧によってできた影と、筋の通った高い鼻を持っていたことが確認できる。〔図13〕このような関紫蘭の目と鼻の特徴を、中川は《緑衣》において目の下のくまやずんぐりとした鉤鼻として誇張して描き出したのである。現存する関紫蘭の作品に《自画像》〔図14〕があり、《緑衣》と比較するとモデルとモチーフ、構図がほぼ一致することが分かる。《自画像》における目の表現では、まぶたと涙袋に影を入れ、光を反射しているかのように瞳に白い点をつけている。また、鼻のつけ根から先にかけて白と黒のグラデーションで明暗を表現し、唇の下に茶色を入れることで顎を立体的に描き出している。このような《自画像》における表現は、中川の《緑衣》と酷似しており、可能性としては中川が関紫蘭に《緑衣》を預けていた間に、彼女がそれを見ながら模写をすることで《自画像》を描いたことが考えられる。そもそも中国美術には模写の伝統があり、河野道房氏によると模写のもつ機能は― 38 ―― 38 ―

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