鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
500/602

した図案家の養成を標榜している。大日本図案協会の総則には「本会ノ目的ハ広ク工業上に応用ス可キ図案ノ改良進歩ヲ研究実践シ(後略)」とある(注8)。図案者の責務は世の流行に盲従するのではなく、用途に適合するかどうかを顧みないような図案者は注意するべきである(注9)、形状や絵模様を図に表すのは図案家の責任であり、製造上の難しさや都合を考えないのは品位に劣る(注10)等、こうした記述は幾度となく確認できる。実技ベースで図案についての研究が必要であると提唱している団体なのである。小美術会と大日本図案協会は、新しい図案が必要であるという考えは共通しているものの、小美術会が独自の図案を考案することがまず第一であると考えていたのに対し、大日本図案研究会は実践的な図案制作を考えており、目指しているものが違っていたのだろう(注11)。5、同時代の図案と青楓の図案の実用性このような批判がある一方で、青楓は図案家として求められているものを制作できなかったわけではなかったと考える。第3回京都図案展覧会では、出品点数350余種の中から、古香と青楓は四等賞木盃を得ている(注12)。また、3巻で打ち切りになった『うづら衣』の次に刊行された⑧『染織図案』は、以前に刊行された⑤『図案集』と同種の、染織に応用されることを想定した図案集だが、⑤『図案集』が連続模様を主とした伝統的な図案の構図であったのに対し、特定のモチーフをクローズアップしたものや簡略化したものなど、アシンメトリーに配置した構図が多くなっている。この傾向は、当時流行していた懸賞図案の応募作品の傾向と同様であり(注13)、青楓がその時の流行を把握していたことを表している。また、同時代の図案集として、山田芸艸堂は、明治29年(1896)から、図案雑誌『美術海』を刊行している。毎月1号刊行され、1号につき約20図の図案を掲載している。掲載された多くが長方形の枠内に図案を描く、青楓の③『華紋譜』や⑤『図案集』、⑧『染織図案』と同じ形式で、染織図案を想定していると考えられる。これは評判もよく、明治33年(1900)まで刊行され、その後は明治35年(1902)に『新美術海』と名を変え、改めて刊行が続いた。掲載された多くの図案の制作者は明らかではないものの、図案制作で知られる古谷紅麟や海外天年の他、折り込み図案という他の掲載図案とは違う形で竹内栖鳳(記載は棲鳳)、柴田是真の名を見ることができる。『新美術海』では、著作者として古谷紅麟の名があり、神坂雪佳も携わっていることが知られている。この『美術海』、『新美術海』に掲載された図案を見ると、青楓の染織図案と使用するモチーフや構図に類似性を見ることができる。― 488 ―― 488 ―

元のページ  ../index.html#500

このブックを見る